優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

自分で何を言っているのかわからない

ここ最近、色々な思考の時間が短いスパンになった。

考えに気持ちをもっていかれなくなったということなのか、深みにはまらないための自己防衛なのか、よくわからない。

ちょっと前までは、夫のことで何か考えだすと、そのことに関する記憶とか考えを自分の中から根こそぎ出そうと、ぎゅうぎゅう自分を絞り上げていた。

でも、ここ1週間くらいかな、そんな感じがなくなった。

フッと浮かんだ考えで、フッと悲しくなって、フッと泣いて、フッと元に戻る。またしばらくしたらこれが起こる。1日の間に数度、ポツポツと起こる。

ちょっとした現実逃避期間に入っているようにも感じる。

夫が亡くなったことについて、自分自身を追い込んで考えることは、私には絶対に必要だった。今も、まだ必要だと思ってる。他者を恨むことは、どこかで虚しくなる。やり場のない怒りに覆われる。でも、自分で自分の行いについて考えるときは、責める相手としての自分がいて、責任だって求められるし、謝罪させることもできる。罰する自分と、罰される自分がいて、それだけが今の私の苦しみの受け皿になってる。ただ、これもやり過ぎには注意が必要だ。だんだん考えがエスカレートして、自分と夫の間の大切な思い出さえも、潰してしまいそうなことに気づいた。夫と出会ってから、亡くなるまでの思い出に対して、自分自身の粗探しをかけていた。何か不健全な兆候とか、関係性のいびつさとか、そんなことが読み取れるような気がしてしまった。でも、そうなったら苦し過ぎた。夫のことを好きと言う権利が自分にない気すらしてきた。それで、なんだかどんづまりになって、やっぱりそこまでやるのは、やり過ぎだと思った。

大切な人が亡くなった後は、本当になんでも後悔につながりやすい。何かのときに相手に反射的に言った言葉とか、送ったメールとか、その時の空気感とか間合いとか、「なんか、いやな感じ」を含ませたやりとりは、日常に溢れてる。実家で父と母と祖母のやりとりを聞きながら、そう思う。大体は、お互い様のことが多い。ちょっとした時にいじわるだったり、ちょっとした時に冷たくしたり、ちょっとしたときに批判したり。そういうことって、どんな人でもあると思う。それで、お互い5分くらいちょっとイラっとして、すぐ忘れる。でも、相手が亡くなった瞬間に、そんな自分の言動がいかにひどかったか、悲しくなるんだろうな。もっともっと、24時間、心から優しくしていれば良かったと思うんだろうな。本当は、そんなことは人間には難しいんだろうけど。

それでも、夫はそういう含みを持たせた言動とか、周囲への攻撃性が本当になかった。夫は、本当に人間界の例外。だから、比べると余計に自分のずるさを感じてしまうんだよね。2人の関係性を否定していくことは、私はつらいし、嫌だ。だから、私がずるくて夫を苦しませたというようなことは考えたくないんだけど、そういう考えに近づくときもあって、それが、とても悲しい。

こんな感じで、私はこのところ、ある種健康的に、持続可能な形で考える方法を失ってしまった。それで、一旦考えることを一時休止したようで、夫のことに向き合わない時間を作り出してしまった。向き合わない時間は、このあと再度向き合うことを、とても怖く感じさせる。虫歯だとわかっているのに歯医者にいかない時間と、精神状態としては同じかな。ここ数日、遺影を見るのが怖いような、逃げているような、そんな感じ。

この考えない時間が逆にストレスになったのかはわからないけど、週末にお菓子を大量に買い込んで、食べまくった。深夜ラーメンを土曜も日曜もしたし、お酒だって飲んだ。なんか健康な食生活を破壊したい衝動に駆られた。それでも、そんなことしても何も変わらないとわかったから、今日はお菓子は食べなかったけど。

上下左右、どこをどう向いて、どんな風に足掻いても、結局なーんにも変わらないから、ストレスも溜まるし、八方塞がりだ。週末は雪が降ると聞いたから、金曜に親に「今日冷水浴びて全裸で道で寝てたら、明日の朝ぽっくりいけてるかね」と言ったら苦笑いされた。それでも、私の地域では一切雪が降らなかったので、日曜夜に再度、「結局雪降らなかったから、ただ不審者通報されるか、びしょ濡れのまま家の中に戻るしかなかったね」と言ったら、今度は声をあげて笑ってもらった。

我が家のブラックジョーク耐性を鍛えすぎないように、私も発言を考えないといけない。