優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

ないなりに楽しい

夫が亡くなってから強く思うけど、人の正常ってなんなんだろう。

生まれた時から死ぬって決まってるのに、お気楽に生きてるのが人間。意味のある人生を送ろうとして、平和だ、健康だ、貧困削減だ、環境保護だと一生懸命訴えているのが人間。やりたいことが見つかった、見つからないで悩んだり、自分だけの使命感を探して日々暮らすのが人間。この人間、多分、私。夫は、この生命に意味なんてないってことに、昔から気づいてた。就職活動中にも、私に対して「意味なんてないよ」と繰り返してた。今振り返ると、ひたすら物事の意味を探す私に、どうせ意味なんてないのだから、自分をそんなに尊大な存在にしようとするなと伝えようとしていたのかな。

去年の9月、夫と代々木あたりを歩いて、夫が入りたいと言ったビアバーに入った。そこで夫は世の中に絶望だって、希望だってなくて、なんにもないと言った。なんにもないのに、あると思ってる世界は、意味がないと言っていた。私はしばらく聞いていたけど、夫の言うことがよくわからなかった。だから、きっと夫がイライラするような合の手ばかり入れていた。過去の録音を聞いていても思うけど、私って本当に偉そうに、ふてぶてしく話す。聞いてやってるみたいな声で、自分で嫌になる。この日は、一通り飲み食いした後で、夫が店を出ると言って退店し、そこから別行動になった。私は、こんなところで放り出されてもと思って、街路で突っ立ってケータイを見ていた。夫はあたりを散歩したようで、20分後くらいに私の前を通りかかった。「ああ、みんみん」そうやって気にかけてくれるだけで嬉しかった。私が悲しい顔して突っ立ってるのを見て、「あっちにのれん街あるから、行けば?」と言ってくれた。「なにも世界にないのに?」と聞くと、「ないなりに楽しいから」と言ってちょっと笑った。

 

ないなりに、楽しい。ないなりに楽しいなんて思うのか。ないなりに楽しいなんて、思ってくれるのか。今更だけど、考えてしまう。夫に強制的に治療を受けさせることは、尊厳を傷つけてしまうと思っていた。夫は気にすること、しないことの区別があって、きっと強制的に何かをされたり、病のようなものを自覚して、受け入れて、立ち上がることは、夫にとってとてつもなく苦しいことなんじゃないかと思っていた。でも、ないなりに楽しいのか。苦しいなりに楽しいと思ってくれることもあったのかな。人生がなんにもうまくいかなくても、私と一緒で楽しいと思ってくれる可能性もあったのだろうか。

ずっと、治療については夫のことを最優先に考えたつもりだった。まるで悪いことをしたかのように、強制連行されるような姿は、やっぱりあってはならないものだと思っていた。それは、私の善悪判断なんだと思う。今だって、もし夫が同じ状態にあったら、強制的な治療は、やっぱりさせないと思う。でも、その結果として、夫はとてつもなく苦しんでしまった。それでもずっと挽回するつもりだった。今、挽回できずに終わったというところにいる。

治療を受けないということに、夫の判断はあったと思う。病人扱いをするな、するならもうこれを全部やめると強く怒られたこともあった。それが異常と言われてしまうけど、夫の意思があったと私は信じている。信じるしか、ない。信じたい。

側から見たら、夫は異常な状態だったと思う。私から見ると、人間そのものに狂気があって、そのことに夫が心の底から気づいてしまったことに、苦しんでいるようにも感じた。夫はもともと、人間的なものが好きなはずだ。どこかで地域のお祭りがあればそわそわと出かけていくし、特産品フェアだってわくわくする。特急電車に乗るのにジュースとかお菓子とか買って、そこで名物プリンの移動販売なんかがあったら、子供みたいに喜んで買うと思う。私と意味なんてこれっぽっちもないギャグを見せあって、笑いすぎてヨタヨタ歩いちゃう時だって、すごく幸せを感じたと思う。だから、意味がない中にも、とてつもない意味を感じてしまうことは、夫だって生きた中で体験している。

もう一度、意味がないことに気づいた夫を、薬で麻痺させることが、出口だったのだろうか?意味がないけど、意味があるように感じられるのが、正常ということなんだろうか。こんなこと、本当に悩まなくてよければいいのに。悩まず死んでいける人だって、いくらでもいるのにな。