優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

一週間はまとまらない

今週も長い一週間が終わった。

夫が生きてる頃、闘病期間中は毎週毎週乗り切るのがつらくて、少しでも良いことに目を向けようと思って、その週の良かったことを無理くり日記に書き出してた。

すると、不思議なことに、意外にも毎回、先週まで夫とできていなかった新しいことに気づけて、夫と2人で確かに何かに向かって進んでいる感覚があった。それは誰に説明してもほとんど共感してもらえないほどさりげないものばかり。夫ともなかなか共有する機会を持てなくて、ただ自分に向かって、2人で取り組んでいるこの何かに自信を持つよう、何度も何度も唱えてた。たとえすごく長く時間がかかっても、こうして2人で取り組むことで、きっと光が見えてくるはず。まだなにも光は見えないけど、この先にきっと光が見えるだろうという期待の灯火を自分の中で燈し続けていた。あの感覚を、臆さず夫とももっと共有していれば、夫の自信や希望になったのだろうか。

ずっと、我ながら、ものすごく頑張っていたと思う。もちろん、2人で。もちろん、夫の方が私の数億倍。でも、とにかく、2人とも頑張っていた。あの頑張りが、報われなかったということが、とても悲しい。頑張ったら夢が叶う、奇跡は起こる、という人生の希望みたいなものを、打ち砕かれてしまった。私が人生で一番頑張ったことで、人生で一番悲しいことが起こった。私たちが頑張りという勢いをつけたがために、夫が死に向かうエネルギーを生み出してしまった。本当に皮肉なことで、皮肉でしかない。達観すれば、どうせみんないつか死ぬ、とか思える瞬間もあるんだけど、次の瞬間にはもっと俗世間的な思考に戻って、毎分毎秒、夫がいないことの悲しさを思う。

私という人間の一生を日本史の教科書で書くなら、「夫の闘病のため奔走するも、35歳の冬に夫死亡。57歳没」みたいな感じかな。夫が死んだ後、何してたんだろって感じだよね。「夫の闘病のため奔走するも、35歳の冬に夫死亡。当人36歳春没。」この方が納まりはいいのかな。でも、そんな勇気ないし、メンタルが鈍感すぎて、これだけ苦しいのに、ふとした瞬間に自分の生命力が燻ってるのを感じる。次の瞬間、夫の遺影を眺めて、夫の書いた可愛すぎる文字とかを見て、また表現できないような絶望感に襲われる。このジェットコースターが死別というものなのか。苦しいな。夫はもっと苦しかったろうな。夫の方が苦しかったな。

一週間をまとめようと思ったけど、何もまとまらなかった。まだまだ夫くんタイムを持ち続けようと思う。それしか今の自分にはできないし、しててしかるべきと思うから。