優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

365日、迷わず苦しい

この苦悩の出口に、現世での夫との再会というものが用意されていないことが、何よりも苦しい。空想の世界で夫を自分の意向に合わせて処理するような手段しかない。それは、夫は私の中で生き続ける、みたいな、よくわからないけど自己満の形に整えて、それでよしとすること。

だって、それしかないんだもん。もう本人はいないのに、自分は相手を必要としているんだもん。この苦しみをこの感覚で維持したまま生きていく意味は、私にはない。だから、何か割り切りのある概念に昇華させるか、自分も生きるのをやめるかしか、ない。自分が生きるのをやめることは、怖い。痛い。でも、夫がいない中で生きたいわけでは、全然全然ない。

世の中のどこに目を向けても、夫の存在が大きすぎる。それは春夏秋冬どの季節も夫の姿を思い出すだけでなく、年がら年中散らばめられた2人の各種記念日が常に頭に浮かび上がるだけでもなく、どこどこ駅と言われれば過去に出かけたデートが思い出されるだけでもなければ、何年と言われればその年に夫と私が何をしていたか鮮明に蘇るだけでもない。それはもっと些細なレベルでも万物に対して起こっている現象で、世間から繰り出される全てのお題に対して、まるで漫才師の機転の効いた返しのように、夫の存在を示すエピソードが私の中から湧き上がる。「ジム」と耳にすれば、夫が今年の9月頃、有酸素運動をしたいと前向きな発言をしてくれて、一緒に近場の施設の見学に行ったことを思い出す。「バルサミコ酢」が料理番組にでてくれば、夫が体調が悪い中でも「高価だし使いこなせるかわからないけど、次に買ってみようと思う調味料」と話してくれた様子を思い出す。仕事のやりとりで先月の話をすれば、ああ、その時はまだ夫が生きていた、もう死んでいた、と必ず日付を確認してしまう。アパートのポストに投函される光熱費の請求書がまだ夫宛てであることに安心し、私の給与明細に「扶養人数1名」とか、「扶養手当」とまだ今月も書かれていることに肩を撫で下ろす(11月前半は生きていたので、有効ということなのだろう)。その後で、来月にはもう記載丸ごとなくなるのだと思って、苦しくなる。

この状態で、今後365日過ごすのか。それで、その間に結婚記念日とか、私の誕生日とか、交際記念日とか、夫の誕生日とか、夫の命日なんてものまで、降りかかってくるのか。

もう本当にお腹がいっぱい。消えてしまいたいとしか思えないよー。