優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

食べることだけが楽しみ

深い意味はないんだけど、遺書なるものを書いてみた。どんなものなのかなという興味もあって。死ぬなら、遺書なしは残された人が困るような気もして。

書くことはできたけど、自分がその内容に納得してるかと言うと、別に納得してるわけでもない。読んだ人を説得できない気がするからと、自分の本心なのかよくわかんなくて、浸ってるだけなのかなとかも思って、ちょっと冷めた目で読んでしまった。

ここで自分のこと意気地なしとか、腑抜けとか言い出すと、むしろムキになって実行しちゃうかもしれないから、そういうことじゃないって自分をなだめる。やっぱり、一番ひっかかるのは、自分は死んで楽になるとして、自分の周りの人に大きな苦しみを生んでしまうかもしれないということ。そして、どういう死に方であれ、後処理が必要になるから、なんか忍びないなと思った。それで、後処理が大変じゃない方法で考えると、死にきれない可能性があったり、失踪みたいに迷宮入りになったり、それはそれで遺族が大変そうだから、結局良い死に方ってないなと思った。やるなら夫と同じ方法がいいんだけど、それもしぶとい私は九死に一生とかありそうだし、そうならないためには、ものすごく痛そうな方法を選ばないといけなくて、それはそれでビビる。夫の場合、その点無計画と思えないくらい、突き抜けた死に方だったから、死に方まで美しいなんて、と思ってしまった。それくらい、審美的には美しかったと思う。ずるい。そんなところまで誉めさせないでよ。。。

わたしの遺書の半分くらいは、私が勝手に選んだことだから、誰も悪くない、誰も自分を責める必要ない、悲しまないで、私は夫くんと落ち合うから幸せになれる、って書いたけど、両親とか、当然悲しむよなあ、と思った。説得力がないのは、そこ。あと、痛みへの恐怖。寝る前に死亡予約のボタンを押して、明日の朝、目が覚めないとかならいいんだけど、そういう方法はないからね。結局、死にたくはないんだよね。痛いことも、嫌。でも、夫のいない世界も嫌。物理的な痛みと精神的な痛みは天秤にかけられない。どうしろっちゅーねーん。

なにもしないから、大丈夫なんだけど。遺品整理の悲しさもわかるから、やる前には、相当メルカリで売り捌いた後じゃないとね。生きるには短期的な楽しみが必要だな。なんだろう?ないよ、なんも。本当になんにも楽しみなんてない。食べることだけが楽しみって、夫が言ってたのを思い出す。本当に今になって気持ちがわかるな。それだけが楽しみって、なんで口に出して言いたかったか、今になって本当にわかる。こんなに共感してしまうなんて、皮肉すぎるよ。もっともっと、いっぱい一緒に外食すればよかったな。食べる楽しみをもっと生み出してあげられればよかったな。楽しみって言葉を言ってくれたのに。また一つ、自分ができなかったことに気づいちゃった。夫くん、ごめんよ。。。。。