優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

薄情ってなんだ

私が夫の苦悩に寄り添えなかった理由や、苦しみから救えないどころか、その最たる死というものに突き落としてしまった理由について、自責の念はあるけれど、それと同じくらい他責的な考えが日々浮かんでくる。むしろ、死の直後は自責が大部分を占めていたのに対し、ここ数日は、他責的な悔しさや怒りが自分の中で静かに高まっている。

一方で、どうしようもなかったということも承知している。夫に関係したどの人も、その感受性、思考力、知力、責任感などが全く異なっていて、それぞれに強みや弱みがある中で、夫の回復のために、その人ができる方法で関わってきたということ。その力の入れ方さえ、自己犠牲をどれだけ払えるかに依るし、払った上でも自分の生活を営める人と、営めなくなるから1日5分しか充てられない人、自己犠牲を払って自尊心を高める人と、ただ損をした気になる人など、もう全員優先順位がそれぞれに違って、それがその人の人格の限界だった。だから、どうあがいても、この結果はある種、しょうがなかった。そんな脆弱な体制の中で、なお夫の回復を自分が支えたいと思ったのは私の奢りであるし、自分の力や愛のパワーの過信でしかない。どこかで、私と夫の愛情があれば、乗り越えられるような気がしてしまった。愛に勝るものはないと思っていた。ましてや、心の病であれば、愛が溶かしてくれると信じていた。その信条を放棄したら、もう医療に強制的につなぐしか方法がなかった。

こうやって書いてても、ものすごく悔しいし、私は何かを諦めて受け入れるということが、命と引き換えくらいに嫌いな人間なんだな、と自分のことを思う。レジスタンスの時代だったら、先頭で銃口にもひるまず旗でも振っていたかもしれない。いや、ビビリだからそれは無理か。

それにしても、繰り返し浮上するのは、なぜこの世の人々はこんなに冷たいのか、なぜこんなに振り向いてくれなかったのか、なぜ1日に24もある時間の中の60ある分の幾つかさえ、割いてくれなかったのか、という悲しみである。

でも、そういう関係性は、人生の至るところで顕著だ。私だって、家の目の前にホームレスの方が住んでいたとしても、きっと1円たりとも分けることなく、その人が亡くなるまで無関心を貫くだろう。人はそれくらい、薄情だ。それは、私もそうなんだ。途上国のどこかでストリートチルドレンが何人いようと、内戦で何人虐待されていようと、私は幸せに夫とお金をつかって、美味しいものを食べて、デートをしていた。それくらい薄情だ。

薄情さに良いも悪いもなくて、単なる線引きなんだろう。ここまでが私のテリトリー、と気持ちの線引きをして、それを信じて止まないだけ。それを正当化できるのは、人間の狂気のような思い込みなんだと思う。

こうして書き出してみて、少し怒りがおさまった気がする。自分が腹を立てる人々と、私自身が、結局は同じ穴のムジナだということなんだな。

私は他責的な考えになると、自責より苦しくなるから、やっぱり自責でいいや。自責であれば、自分で考えたり、自己満でしかないけど反省ができる。他責は、本当に生産性が低い。夫だって、私が他の人を恨んでるのは、なんとも言えない気持ちになるだろう。見損なわれるかもしれないな。よし、他の人は責めない。また3日後には責めてるかもだけど。