優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

活かせなかった写真パワー

夜中に目が覚めて、朝まで少し浅い眠りになったようで、夢を幾つか見た。

何かの夢で夫が出てきたけど、手紙だか書き置きとかでの登場で、本人はいなかったような。私の夢コントロール力、すごいな。まだ夫の登場に向けて気持ちが準備できないし、昔の優しい夫を夢の中で動かせるほど柔軟に思い出せないからかも、とも思う。

最近毎日貪るように写真を見返していて、改めて夫がいかに苦しみの症状で元の人柄から変わってしまっていたかを痛感してる。ずっとわかってることだったけど、そんな考えは目の前の夫に悪いと思って躊躇してた。その一方で、私は夫がこれからずっとこういう人格になるのか、あるいはこれが夫なりの人格の発展、成長なのかと、強い悲しみを感じてたので、元の人柄をもっと良く思い出せば、そんなことはなかっただろうと今なら思える。

更に今となっては無念なのが、この大量の写真データを、7月から亡くなるまで夫が持ち出して、私は見られなかったことだ。私のものなので、何度か返してとお願いしたけど、夫は頑なに返さなかった。あれはダメ、僕も見てるから、と。その気持ちが嬉しかったから、そのままにしてたけど、夫は9月にPCが壊れたから、見る方法はなかったんだよね。

夫も、私も、写真の中に在りし日の2人、相手、自分を探して、自分たちの未来も見つけ出そうとしてた。今の有り様が終着点ではないぞ、と。

今データを見ると、持ち出していた時期に夫が一生懸命写真を一枚一枚開いて見ていた日時が記録されている。夫は写真を見て、何を思っていたのだろう?

そんな写真のパワーがお互い9月以降は切れてしまってた。夫が亡くなるなんて思わないから、そんなこと小さな話だと思っていたけど、もっとお互いが写真を見ていれば、強化される信頼や再認識される愛もあっただろう。何より互いに優しくなれたかもしれない。私の場合、あらゆる悲しさや悔しさや理不尽は、昔の写真を見るだけで涙と流されて、すごくリセットされる効果があった。そうしたら、夫をわからずやと言わんばかりの窮地に追い込み、死に至らせることの異常性に気づけたかもしれない。

今、写真を見る行為を毎日1人でやってる。もう何もないんだけど。ただ夫を見たくて、夫といる自分を見たいから。だいぶ、遅かったな。