小沢健二
夫を感じるもの。
写真や動画みたいに夫の表情や声を見せてくれるもの、
服や靴みたいに夫の姿を思い出せるもの、
家の中の小物や雑貨みたいに可愛いものが好きだった夫を思い出すもの、
手紙みたいに夫がわたしへの気持ちを記してくれたもの。
どれも亡くなる前から感じていたものだし、見たことがあったのだけど。
亡くなってから知ったのは、夫が好きな音楽が見せる世界観。
わたしの母は力強く歌い上げる歌手が好きで、ジュリーとか布施明が好きだった。
私もロックンロールが好きで、社会への怒りをぶつける音楽が好きだった。
だから、夫に出会う前から、我が家では小沢健二は気取った今時のニイちゃんとしてとても不評だった。
夫と出会ったとき、夫は「フリッパーズギターと小沢健二が好き」と言った。
私は「えー、オザケン、嫌い」くらい言ってたと思う。
今振り返れば、芸能人や歌手の好き嫌いほど根拠がないものはないな。怒りの感情を原動力に生きてきた私には、オザケンのかるーくかるーく、かるーい歌声と曲調がなんともいけ好かなく映り、彼のヒット曲をTVで聴いたくらいしか経験がないのに、古風な頑固おやじのように自信を持って嫌いと言っていた。
夫が亡くなって、葬儀のためにCDを探して聴く中で、この考えが見事に覆された。
オザケンの若く切ないほどに明るい声が、一周回って前向きでポップな歌詞を伸びやかに歌ってくれる。世の中には不条理も苦しいこともたくさんあるけど、誰かを攻撃するでもなく、怒りをぶちまけるでもなく、歌の主人公は華やかな都会を軽快に闊歩し、軽やかなステップで足跡を消すように生きている。夫は、同じ文学少年として、この世界観にとても憧れたんだろうなと思った。夫はどろどろした人間関係とか、誰かについて陰口をいうようなことと無縁だった。本当に一度もそういう話を聞いたことがない。それでも誰よりも生きづらさを抱え、大人になることをひどく恐れていた。大人になるということは、どろどろの人間関係の中に自分を落ち着けて、不条理を生み出す側にもなっていくことだ。その転換を夫は断固拒否したがっていたように思う。そんな夫にとって、オザケンの歌詞は憧れの成人像に映っていたに違いない。
夫の葬儀以降、家で何度もCDを聴いている。オザケンのアルバムはどれも名盤だなと感動して、聴いていると夫が思い出されて涙がでてくる。実家の家族とのドライブでCDをかけると、全員意見が揃って、オザケンの曲はいいなと言って、これは夫くんだね、夫くんは本当に優しい子だったね、と話した。
オザケンより二回り若い夫が、車の中で無邪気におっきな声でsing alongしてる気がした。素敵な音楽を教えてくれて、ありがとう。