優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

絶望と自分

絶望の底にいる時に、「きっと数年立てば、この闇も明けるだろう」なんてゆったり構えられる人はいない。その中で感じる絶望だけが自分にとって真実で、目前に無限の暗闇が広がる。そんな真っ暗闇の中にいる自分に対して、「きっといつか世界が明るくなるよ」なんて言われても、話が噛み合わなさすぎてムキになって全否定するか、残念な奴と思って相手にしないしかない。要するに、何をどう頑張っても、自分の人生がまた上向きになることなんて絶対にない。何より、自分は人生を上向きにさせる権利すら失ったと考える。そう99.99999%思っているのだけど、心のどこかでこの信念を破壊してくれることを相手に期待している。それなのに、大抵の人は話が下手くそで、魂もこもってなくて、虚栄心や自尊心から上擦った声で虚しい言葉をかけてくる。これには自分の信念の方がその正当性と迫力で圧勝してしまい、自分のこころの氷河を溶かしてくれない相手のポンコツ具合に激しい怒りがこみあげる。絶望とは、深い深い悲しみと合わせて、猛烈な怒りのエネルギーも備えているように思う。それは、自分への失望でもあるし、周囲への失望でもあるのではないか。

 

自分が闇の中にいるときにはそんな考えが浮かぶのだけど、より一般論で考えた場合には私の見方も変わってくる。果たして自由意志を持った個人に、一生抜け出し得ない、絶対的な闇なんて、あるのだろうか。黒い絵具だって自分が少し体勢を変えると光の反射で真っ白に見えたり、流水で薄めれば黒からグレー、薄いグレー、そしていつしか限りなく無色に近くなるように、物事が循環しているこの世の中では、確たる事実とは良い意味でも、悪い意味でもあまりないのではないか。

 

仮にそうだとしても。問題は、この闇を抜け出すための段階的変化が、いつどういったきっかけで始まるのか、当人にも、周囲にも、まったくわからないことだ。その変化が生じるためには、当人にとって何らか主体的で直感的な転機が不可欠だと思う。それは大胆な転機じゃなくて、他の誰も気づかないくらいの微々たる変化でも良いが、最も小さい単位でも良いので、何らかの「意味」を当人にとってもたらしてくれると良い。それは、その人の努力で起こるものでもなくて、ちょっとした気の緩み、弛緩から入り込んできてくれる感情なのかもしれない。

 

それは無理解の他者から「諦めて受け入れろ」とか、「周りに自分の弱さを認めろ」とか、「気持ち切り替えてやり直せ」なんて言われて服従して生み出す変化とは全く違う。人が絶望するのは、自分がこれまで生きてきた人生の舞台から退かざるを得ない窮地に押し込まれ、あるいは一縷の自尊心で唯一しがみついている自負と現実の間になおギャップが広がることに悶え苦しむからだと思う。ここでは、現実の受け入れとか、現実を踏まえた人生の妥協のような解決策は、なんの助けにもならない。むしろそれができるのであれば、最初から苦悩なんて存在せず、自分の能力や可能性をどんどん放棄しても人はニコニコしていられるだろう。

 

私の関心は、今自分自身の絶望もさることながら、夫が抱えていた絶望にあるように思う。夫が抱えた絶望はどんなもので、夫はどんな心理状態にあったのか。どうしたら、夫にあと少しでも希望の光を感じてもらうことができただろうか。他者である私に、できることはあったのだろうか、それとも、本質的にはなかったのだろうか。これから私が一生をかけて夫のことを考えるにしても、この先誰かに寄り添うことがまたあったとしても、今私が経験していることは、未熟な私が夫の境地に近づく一生に一回の機会なのだと思う。それは、夫が隣で苦しんでる時に、私がどれだけもがき苦しんでもたどり着けなかった境地。本当の苦しみにある人は、どんな気持ちにあるのかという、経験した人にしかわからないであろうもの。これを知りたかった。この気持ちを私が知っていたら、また全く異なる言葉を夫に渡すことができたかもしれない。あるいは、まったく一言も発さなくても、私の存在そのものがもっと静かで深くて穏やかな安心感につながったかもしれない。私の躍動感やエネルギーでは支えられない、心に傷を負った人に本当に寄り添う方法があったのかもしれない。

 

夫に会いたい。