優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

考えることがありすぎる

何もしてないのに毎日すごく眠たくて、朝も結構遅くまで寝てるし、夜も布団でコロリと眠ってる。同じような境遇にあった人のブログにたくさんパワーをもらってるけど、亡くなった直後の記事を読むと、ほとんどの方は不眠になる時期があるみたい。今くーかー寝てる私は、悲しみで日中パワーを消耗して、夜は充電する方式をとっているのかな。考えて考えて、たくさんの思いを文字に落としながら、夜はシャットダウンしたように眠ってる。よく寝ているからなのか、夫に見限られているのか、夢なんて見てないように思う。でも今夢に出られたら、やっぱり悲しすぎる。

一方で、自分はまだどこかで実感が湧いてないのかなとも思う。2年間の闘病期間中、元の夫の人柄が見えなくなる時間も多くて、今となってはかなり長い間、本来の夫に会っていない気もする。過去2年間は、目の前の感情に揺さぶられて苦しむ人が夫だと思ってきたけど、それを夫本来の姿と捉えるのも違和感があって、そのところの整理や定義づけは自分の中でできていない。亡くした相手が誰だったのか、自分の中でバグが起こっている感じ。でも、本来の優しくてあどけなくて誠実な夫の写真を見つめていると、写真の中の人は自分にとってとてつもなく大切な人で、この人がいなくなったんだと思うと、自分の中で入っちゃいけないスイッチが入る感じがある。そのスイッチが入ったら、私は発狂してしまうんじゃないかと思うくらい、大好きすぎて死ぬ人。

自分と夫の人生ストーリーを、こんな悲しい顛末にしたくなかった。どんな死別だって、結果としては大切な人を失うということで、共通の苦しみはあるのだけど、夫に起こったことや、最後に直面した場面は、あまりに衝撃的で、これを自分の中でどう咀嚼すればいいのか、よくわからない。自分に関することであれば、「ま、いっか!」という私の口癖で片付けて、それについて良いように記憶上で再構成して落とし込めば良い。でも、今回のことはそんなさっさかポジティブに片付けられる話ではないし、私が泣いても悲しんでも叫んでも後悔しても覆るものでもない。ましてやその一番の被害者が自分ではなくて夫なのだから、私には挽回のしようのない話になる。お詫びしようにも、本人はもうおらず、懺悔の言葉を聞いてもらうことすら叶わない。

毎日頭の中で10回は再生しているであろう、夫が亡くなるときの映像は、それまでの闘病期間から一種切り離された残酷な記憶として、私にぐるぐると考えさせる。その直前までの夫と私の共闘期間については、色々な考えが巡りながらも、私たちらしく立ち向かったと思える。でも、夫に最後に取らせてしまった行動は、どうひっくり返っても悲劇でしかない。夫に対する配慮が全く欠けてしまった、周囲の過失による致死だと思う。そんな事件のようなことが自分の人生で起こってしまったことは、闘病とか、夫との死別に加えて、第3の苦しみとして浮上してきている。

この夫の死に至るラストシーンと、その結果として終着した夫の死という体験を、この後どう自分の中で形づけるのか、まだまだ私は霧の中にいるように思う。