優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

乗り越えられない気持ち

今日は、頭の中が夫と医療のことで、一杯だ。

ネットで似たような症状で入院して、症状が治ったという話を読んだところから考え始めた。

ずっと夫が受け入れやすい治療を探したいと考えていたけど、返す返すも、死ぬくらいなら、夫だって、私だって、入院に進んだと思う。

夫が亡くなったのは昨年の11月だったけど、8月から10月にかけて、私は自分に残された最後の気力を振り絞って、1ヶ月ほど行方をくらました夫を東京中から見つけ出し、夫の療養先に夫と一緒に長期滞在していた。何か進めるならば、2人が一緒にいる今しかないと思って、来る日も来る日も助けを求めたけど、夫の家族がこの状態に向き合ってくれることは、なかった。あの時、私は今こそがタイムリミットだと思っていたし、夫家族にもそう何度も訴えたのに。

どこかで私も、諦めなければいけなかったのだろう。ベストじゃないけど、私自身はやるだけのことはやったという線引きが必要だったのかもしれない。ずるい人が、一生ずるいまま逃げ切ることに、ムキになってはいけなかったのか。私は、逃さないつもりだった。優しい夫のことを苦しませたことが、許せなかった。そんな勧善懲悪の世界にいたので、夫家族を逃したままことを進めることは、大岡越前が泣き寝入りするようなもんだった。

夫の家族の説得は、本当に時間がかかった。それも当然で、過去半世紀以上も、そういう思考回路で生きてきたから、もうその人の生き方そのものになっていた。こうして息子が苦しむ姿に直面しても尚、家族らはお互いの非難に終始し、自分自身が夫にどう接してきたかについては語れない人たちだった。これまで苦しませたことに向き合ってほしい、夫のせいではないと伝えてあげてほしい、夫のありのままの姿を愛していると言ってほしい。こんなことを言うことに、お金も、時間も、かからない。ただ、息子と言う存在に向き合えるか、それだけだ。

この説得の長期化は、夫のことも、私のことも、どこまでも蝕んだ。中でも一番の被害を受けたのは、夫だ。私はそれを自覚していて、「今こうして一人にされて、一番苦しんでいるのは夫くんです」と夫家族に迫っていた。その苦しみは、あとで挽回して、チャラになるはずだったのに。私は、夫を苦しめたい気持ちなんて、なかった。夫の元の性格が思い出せないほどに衝突が多くて、お互いに苦しかったけど、本来の夫に会った瞬間、自分が泣き崩れるほどに気持ちがほどけることは、ずっとわかっていた。その夫に会うことが恐ろしくなるほど、本当の夫を愛おしく思う気持ちは、最初から最後まで、ずっと変わらず私の中にあった。虚しいことに、今でもずっとある。

もう独り言のように、同じことばかり書いているけど、この気持ちは、消化できない。

表現もできない。乗り越えることもできない。全部夫が亡くなって、終わってしまった。

すごい医師

あの日、夫は亡くなってしまったけど、もし亡くならずに話すことができていれば、何をするつもりだったか。

ようやく集まった夫家族と一緒に夫も含めて話し合って、説得をして、そこから多少力づくでも家族の力をあわせて、夫と病院に行こうと思っていた。夫の家族は、その一連のプロセスを警察OBの移送業者に頼もうとしていたが、相談先の病院からは、夫が家族との話し合いにも応じるのだから、そんな手粗いマネはしこりが残ると言われて、夫家族にも説明して考え直してもらった。

その相談先の病院には、夫の状態をしっかり診てくれる医師がいることがわかっていた。闘病期間中、私は家族相談などで何人もの医師と話した。その中でも、私が1人だけ「ピン」ときた医師がいた。元々は、行政の相談会で相談したのが始まりだったこの医師は、私が素人ながらに抽出した夫の主な症状について、とてもよく理解してくれた。そして、今の夫の状態を踏まえて、この先の見立てとか、治療の考え方について話してくれた。

医師との考え方や呼吸が合うことは、信頼感の醸成のためにとても大事なことだと思う。私がこの医師を信頼した理由の一つに、夫の具体的な症状に興味を持ってくれて、その特徴や個性をよく理解し、そこからありうる診断や、その中でもこの医師としてどの診断が有力と考えるか、わかりやすく説明してくれたからだ。そして、似たような事例として紹介してくれた話は、夫の症状ととても似ていた。経験があるからこそ、そして日頃からそういった患者ごとの差異によく注意を払っているからこそ、こういう話ができるのだと思った。あんなに私に納得感を与えてくれた医師は、他にいなかったし、この医師であれば、夫を診てほしいと思っていた。

今となってはとても悲しい話だが、この医師から、夫の苦しみが私に向かっている限りは良いが、夫自身に向かった時が一番危ない。回復してきた時にそういうことは起こる、と忠告されていた。夫の死後に、この医師への相談時のメモを読み返して、唖然とした。あの医師は、本当にすごいな、と占い師にでも会った気持ちになった。

最初から、こういうベテランの医師を信じて、ついていっていたら、違う結果になっていたかもしれない。私と夫は、あるきっかけから、ずっと精神科医ではない医師の往診を受けていた。そして、あれだけ長く密な期間を過ごしたのに、最後には逃げるように往診を終了されてしまった。あの放り出されたときの、夫と、私の、絶望感。もう、手に負えないということだったのだと思う。

これまで、医療なんてかかったことがなかったから、きっと私も夫も、賢い患者ではなかった。医者の専門分野とか、専門医の考え方なんて、よく知らなかった。でも、治療を行う上で、その分野での経験とか、専門性とか、理解力とか、あらゆる面で、大切なことがたくさんあるのだと思う。それを知って、賢い選択をする役割は、当事者の私たちにあった。わからないからと言って、流れに任せていてはいけない。夫は私にそれを任せていたし、私はこの往診医に任せていたし、2人はずっと医師に遠慮もして、受け身だった。医療というものはお医者様と患者という関係性でしかないと思っていた。今思うことは、やはり患者側が当事者として自分の状態にベストを尽くさなければ、医師からのベストを受けられるわけもない。あるいはこの医師ではまずいかもしれないという危機感を持てるわけがない。賢い患者として、医療の知識を持った上で、質問、意見、要求、努力など、遠慮せずに言葉にすることこそが、自分の命を守ることにつながるのだと思う。

それにしても、もしあの日夫が亡くならなければ、夫は先の医師の病院に通うこととなり、世界はまた違っていたかもしれない。永遠の治療ではなく、有限の治療で立ち直ることもあったかもしれない。あと半歩のところで全てが終わってしまったことが、とても無念だ。

 

がんじがらめ

今朝、二度寝の合間だったか、夫が久しぶりに穏やかな表情で夢に現れた。

寝る直前に夫の写真を見たからかもしれない。

私が夫くんに何か言葉を投げかけていた。良くなってくれて嬉しい、だったのか、早く一緒に暮らしたい、だったのか、そんな恋い焦がれる気持ちを言葉にしていた。それに対して、夫は優しくはにかんで、「でも僕、また体調崩しちゃうかもしれないよ」と言った。私は、そんなこと全然気にしない!と言いかかったところで目が覚めた。布団の中の私は、両手で夫の手を握っていた。左手で手を握って、右手で繋いだ2人の手を包んでいた。夫の手だけ、そこになくて、すごく寂しい気持ちになった。

夫が亡くなってから今まで、夫が亡くなってしまった理由をたくさん振り返ったので、この後の私は、夫が亡くなったことをいよいよ受け止めていくのかと思っていたけど、ちょっと違うみたいだ。最近の私は、夫に戻ってきてほしいと思う方向に進んでる。もう一度チャンスが欲しいと何度も思う。あの時あそこまで悲観しなくても、明るく生きていく方法が2人にはあったんじゃないかと思う。ただ、私はそう思えるけど、夫がどうだったのかわからない。そこがずっとわからなかったから、悩んでいたし、迷っていたんだよね。

よく聞いたのが、こういう病の場合、当事者の周りの人にとっては本人が医療につながるまでが大変で、当事者自身は、医療につながった後の方が大変ということ。本人が医療につながるまで、周りの人間は経験したことのない色んな事態に遭遇して、疲弊する。でも、本人は日々の出来事が記憶から抜け落ちたり、ことの重大さに気付いておらず、受け止め方が少し異なったりする。一方で、医療につながったあと、当時者は薬で鎮静化されて、周りは楽になる。「あー、本当に大変だった」と思う。多分この時に、周りが楽になる理由って、さっきまで家族で共有されていた問題が、当事者の中に押し込まれただけなんだと思う。だから、当事者はそこからずっと、この苦悩に孤独に向き合うことになる。

そんなことも考えていたから、私は、私を含む夫の周りの人間が、これまでの自分の行いを自覚したり、反省したりすることが大事だと思っていた。夫の苦悩を生み出した彼の家族も、私自身も、みんなで夫と一緒にこの問題に向き合うべきだと思っていた。夫の家族が逃げたままの状態で夫だけ病院に入れると、これまでの家族の問題がうやむやになってしまう気がした。散々家族に苦しめられてきたのに、夫だけが脆かったような話になる。夫がこれまでに感じた痛みをしっかり分担することが、その後の夫の孤独を減らすことにつながると思っていた。

実は半年間、夫が我に返って体調が戻ったとき、当時の医師から、夫の苦悩が家族にも関係あるので、夫の家族にも状況を伝えることを提案された。夫は、それには賛同しなかった。私も、夫の意思を尊重したかったし、一番良いタイミングは夫がわかると思っていた。夫が再度体調を崩して、私がそのことに向き合いはじめて、夫が躊躇った理由がわかった。この状況を知ったところで、夫の家族は何も向き合わない人たちだった。どこまででも、恐らく耳栓をしてでも、逃げる人たちだった。そのことを夫は生い立ちの中で、嫌と言うほど理解していたんだと思う。だから、伝えたところで、自分が傷つくことも想像できたのかもしれない。夫の家族は、私から状況の説明を受けた後も、たびたび音信不通になったり、数行のメールだけ送ってきたり、家族内でお互いの非難などをしていた。

夫の体調が大きく変わるような重要な場面で夫の家族に意見を聞いても「わかりません」「そうですか」「わかりました」「お任せします」そんな返事しかなかった。夜、アパートで私が一人で極限まで追い詰められて相談したときも、この無責任な一言の返信を受け取ることで、心が潰されるような気持ちになった。そんな夫の家族に対して、私は何度も状況を説明し、お願いし、嘆願し、それでも適当にあしらわれ、無視され、なかったことにされ、約束を取り付けて希望を感じた後に約束も破られ、開き直られ、なだめられ、そんなことを一年間、12ヶ月、ずっと続けていた。最終的に私は夫の家族に対して、腹の底から怒鳴り散らした。あんなに制御できない、どうしようもないほどの怒りを誰かに感じて、かつぶつけたことって、なかった。

そんな私の魂が震えた一撃の結果、この家族は少しことの重大さに気づくこととなった。親の経済問題という夫の苦悩を解消すべく、定年後のアルバイトを確保させることにつながった。そして何より、長らく夫を苦しめた家族の一人を、精神科につないで、治療を開始させることができた。全て、幼少期から今に至るまで、夫に呪いのように覆いかぶさっていた家族の問題だ。その解消の一歩を進めることができた。

そんなことが全て実現して、私はいよいよ夫を助け出せると思っていた。ここまでやった後なら、夫の今後にみんなで向き合うことができる。そんな希望を胸に抱いて、勇み足で夫に会いに行った。でも、まさにその当日、夫は勢いに押されて、亡くなってしまった。

運が悪い。本当に、運に見放されたと思う。そして、また同じ状況に陥ったとき、私はどう対応するのだろうと考える。

夫の不器用さと、私の不器用さが変にミックスした。2人でいろんなことに、がんじがらめになってしまった。その結果、最愛の2人の別れという、とてつもない苦しみにつながってしまった。お互い、これだけは避けたかったんじゃないのだろうか。

夫は死んでその苦しみを体験し、私は生きながらこの苦しみを体験している。

せめて、生か死か、どちらかの世界で一緒に体験したかったな。

お手柔らかな夢

ずっと夫の夢を見ていなかったので、ここ数日は意識的に「夫の夢が見たいなあ」と思ってから寝付くようにしていた。

一昨日くらいも、起きた後でなんとなく夫の夢を見た気がしたけど、内容を思い出せなかった。昨晩も、夫が夢にでた。今朝起きて、そう思って、内容を思い出せるまで、布団にくるまっていた。どうせ低血圧だから毎朝1時間くらいくるまってるんだけど。それで、少しずつ、少しずつ、思い出すことができた。

夫は夢の中でも亡くなったことになっていた。それか、失踪したくらいだったのかもしれない。私は誰かと一緒に夫を探していて、何かの乗り物で夫が最後にいなくなった場所に向かっていた。道すがら、古びた一軒家の横を通り、その一軒家の前にあった室外機に、夫のジャージがかけられていたのを見つけた。

「あんなにボロボロになって。あそこに夫は住んでいるのか」と思って、その家に近づいた。表に向いた窓があったので、そこから声をかけて、中の人と話した。窓を開けたのは、確か夫とは見た目が少し違う人なのだけど、夢の中ではそれでもその人は夫ということになっていた。夢の中の私は、夫が生きていてくれたことに安堵しながら、それでも大変な状況にいるのでどうにかしなくちゃとか、色々考えていた気がする。

夢が私の潜在意識だとしたら、私はまだ夫にどこかで生きていてほしいと強く思っているんだと思う。そりゃそうだ。ものすごくものすごく強く思っている。夫が亡くなったなんて、信じられない、信じたくない、信じたら、発狂する。そうやって、夫が亡くなってから、ずっと騙し騙し、今日まで生きてるんだと思う。だから、夢の中では現実的じゃないとわかりながら、夫を生きていることにしていた。わざわざ夫と見た目が違う、ちょっと別の人のように最後は登場させて、私が喜んでいいのか、懐かしんでいいのか、ファジーなまま起きるような構成だった。あまり期待をさせてしまうと、私自身が、不憫だから。

内容はともかく、こうして夫の夢を見ると、起きてからもその日1日、夫のことをよく考えるようになる。夢を見ると、ときにその内容から夫のメッセージを感じ取りたくなる。もしかしたら、夫が何か言おうとしているのかな、なんて思ったりもする。今回も、まだ生きている設定だなんて、夫が生きているか死んでいるか、まだいっぱい混乱しているのかななんて心配になったけど、見た目が本物じゃなかったから、そこは心配しないでおこうかな。偽物の夫で、私の創作。起きたあとの恍惚感とか、今日はなかったもんな。

まもなく夫が亡くなってから、3ヶ月が経とうとしている。夫が亡くなってからしばらくの間、誰か強盗でも犯罪者でも我が家を襲って殺してくれるなら、そうしてほしいと思っていた。天変地異で全部終わることを待ち望みすぎて、地震を感じて自分の表情が明るくなったこともある。最近は、強盗が押し入ったら退治しちゃうかもしれないし、地震を感じたら、避難してしまうかもしれない。でも、それは生きる意欲が出てきたからでもない。最近の少し落ち着いた気持ちは、「夫はいつものように一人暮らししながら、どこかに生きている」と思っているからだと思う。そう思いたくないんだけど、そう思っている自分に気づく。だからこそ、自分も死ぬ必要がなくなった。

こんなこと全部幻だから、変な途中休憩なのかもしれない。自分の考え方は変だなと思いながら生きているのも、また虚無な感じで、大変だ。

清純で誠実なまま年を重ねること

夫のことを母親と話したとき、母は「夫くんは学生がすごく合ってたよね。おじさんになる夫くんは、あんまり想像できないね」と言った。それを聞いて、確かに、と私は思った。

私も夫も、夢を大きく描くことに幸せを感じていたから、地に足のついた人生設計って、していなかったと思う。保険とか、貯蓄とか、マイホームとか、そういう多くのカップルが結婚したらいつかするような話は、しなかった。少し浮世離れしたところに、2人でぷかぷかいることが心地よかった。私は、夫より現実的だから、自分だけはこっそり地に足をつけながら、夫と語る未来は、ぷかぷか浮いていたと思う。夫の夢を応援したくて、そちらが軌道にのったら、自分は支える側に廻りたいとすら思っていた。元々、私は表に出るより裏方で回す方が向いてるから、夫のマネージャーみたいな役割もあるのかなあなんて勝手に思っていた。

仮に2人が浮世離れした世界にいられなくなって、現実に戻らないといけない時には、私というセーフティネットがあるから、2人でいる限りは大丈夫なはずだった。それが、夫が1人で落ちていくことになったときに、私のセーフティネットなんて何の意味もなくて、夫にも夫自身のセーフティネットが必要なのだと初めて理解した。そこは、私の勘違いだったと思う。2人の人生ではなくて、夫の人生と、私の人生なのであって、私のキャリアが充実していることは、夫自身の生きがいではなかった。夫は、私のキャリアを喜んでくれたけど、それとは別に夫自身の生きがいを求めていたし、所詮お金でしかない私のセーフティネットは、万能ではなかった。

私は、ぷかぷかした世界が揺らぎ始めてからしばらく夫の様子を傍観していたけど、しばらくして我慢できなくなって、唐突に夫に現実を突きつけてしまった。突きつけないと、夫に逃げ癖があって、向き合えないのかと思った。それまでに何度か優しく問いかけても、言葉を濁されて、逃げられてしまったように感じていた。その時すでに、まさか心の病の発症に差し掛かっていたなんて、思いもしなかった。それほど、心の病は、経験するまでは遠い世界、知らない世界なんだと思う。

母から冒頭の言葉を言われて、私も確かに、そうかもしれないと思った。夫のあの清純さと誠実さを思い浮かべると、おじいさんになることは想像できるけど、いわゆる中高年の時代は、本当に想像できない。私自身については想像できる。きっと、若さというものへの諦めをようやくつけて、これからは自分が重ねた年齢を生かすことに邁進するのかなと想像する。でも、夫はどうだろう。この気持ちは、夫が病名の診断を受けることを想像する時と似ている。年を重ねるということから夫が感じる絶望感と、病名を宣告される絶望感が、夫にとっては、同じくらいに苦しいものだったのではないかと思う。

世の中には、夫と似た感性を持つ人がたくさんいるはずだ。芸術の分野に希望を見出す人なら、夫の気持ちがわかるのかななんて想像したりする。芸術家として成功した人ならまた違う世界があるだろう。でも、成功しなかった人は、一体どんな風に折り合いをつけているのだろう。芸術以外の分野で、お金を得るために仕事に就くことに意味を見出せるようになるのだろうか。相手からしたらとんだ好奇心の奴に見えるかもしれないけど、私は夫がどうしたらあらゆる苦悩に折り合いを付けられるのか、経験者から聞いてみたい。

もっと考えて行くと、色々と難しい面はあるものの、やっぱり私は夫のこれからの何十年を支える人でありたかったと思う。おじいさんになった時、私が隣にいたことで、なんとか幸せに生きてこられたと振り返ってほしかった。私は、やっぱりおじいさんになるまで、夫に生きていて欲しかった。そのために、自分も一助になりたかった。なにより、私は夫が生きてくれていれば、ずっと、ずっと幸せだった。果たして夫にどんな生き方があったのだろうという問いは、まだ考え始めたばかり。

ぽーっとしている

2週間ほど前に精神的などん底に落ちてから、ここ2週間ほど、あまり泣いていない。

1日数回、わっと泣くことはあるけど、1時間置きに泣いていたときとは違う。

亡くなった直後に比べて、目の前で起こってること、例えば仕事とか、テレビ番組なんかに、集中する力がある。

夫が亡くなる前だってそうだったけど、私は仕事では馬車馬みたいに働く。それで、最近は残業もまあまあ増えてきて、起きてから、夜寝るちょっと前まで、在宅で仕事してる。仕事してる自分は、好きじゃない。こんな数字とか、「てにをは」とか、言い回しとかを、ちまちま直すような世界で、深夜まで無意味に働いているうちに、夫が亡くなってしまったから。仕事なんて、しなきゃよかった。夫が元気になるまで、ずっと休職すればよかった。

当事者の家族は、いつも通りにしているのが大事と言われるのを、なんだか鵜呑みにしていた。いつも通りの私は、深夜まで働いているのだから。たった1人の家族が深夜まで働くことが、当事者にとって良いわけない。だからといって、夜の7時とか、8時に帰宅できる仕事なんて、そんなにない。その時間帯に帰宅するためには、定時に上がらないと無理。私の会社では、定時にあがると、定時にあがったことに気づいた上司から、ご丁寧に夜中に督促メールが入ったりしている。お互い、ずっとバカみたいに追い込み合う。このいたちごっこみたいなループの中を、私はモルモットみたいに走り回ってて、そのループの外で夫は一人で泣いていたのかな。一人で苦悩する時間に、力になれなかった。仕事なんかより、夫の方が、言葉で表せないほどに、大事なのにね。

働きながら、時短もせずに、誰かの療養を支えることって、基本的に無理なんじゃないかな。もっと楽な部署に異動を願い出ればよかったけど、そんな発想、私にはなかったな。長期の休暇をとるという、自分のレールを一旦止めることはしたけど、レールを降りて、収入も減らすような決心はできなかった。今あの時に戻れれば、するけどね。まさか2年後に夫が死ぬことになるとは、思っていなかった。

夫は夢にもでてきてくれない。時々見る夢では、夫はもう亡くなった後の話になってる。今の私の中で、夫は何なんだろう。夫が亡くなってから、ずっと経緯の振り返りをしていて、夫がいないということには深入りしないようにしていた。そのための心の準備が、自分にないとわかっていたから。2週間前に苦しかったのは、そのことに向き合い始めたから。それでドクターストップじゃないけど、苦しすぎて一旦中断したのが今かな。

時々、気持ちが前よりも元気なときもあって、そういうときは自分で自分に気づく。自分は今、何を考えているんだろう?って内面を覗き込む。すると、この瞬間だけ、夫がまだ生きていることになっている。私は、ただ昔の自分のように元気になっているだけ。でも、悲しいかな、今の私が置かれている状況の解決策は、それではないんだよね。昔の自分に戻ることでは、ない。「ああ、これも何か違うな」と思って、またしゅるしゅると元気がなくなる。

だから、原則、ぽーっとしている。なんか可愛い響きだから、それでよしとしよう。

まだまだ、しばらく、ぽーっとしていようと思う。

精神疾患の診断

これ以上不毛なことはないのだけど、昨晩は、夫の症状が一体何だったのかという、また終わらない迷路に入っていた。

精神疾患とは、本当によくわからない。

「診断なんて、そこまでの根拠がなくて、よくわからないものだから、意味なんてないんです」と言いながら、Aという病名を告げる医師もいれば、「Aという診断をする医師もいるかもしれないが、私はBだと思う」と言う医師もいた。もしかしてCという病気かなと思ってその権威のところに飛んでいったら、「Cではない」と言われたりもした。

どうせこの内のどの病気であっても、あまりに衝撃が大きくて、病名を告げられたら、夫は立ち直り方がわからなくなってしまうのではないかと私は心配した。命を絶ってしまうのではないかと真剣に考えた。そして、私自身、どうすれば良いのか、本当にわからなくなってしまった。

診断を受けるということが、その後、一生ものの医療のレールに乗るということならば、そんなものは、いつだって乗ることができる。そこを無理強いすることは、私の考え方とは違った。それに、夫は一般的な症例とは違う顔をたくさん見せていた。夫が行政の手続きをサクッとこなしたり、GoToキャンペーンの複雑な料金プランの話なんかもすんなり理解することを話すと、医師からは「でたらめなんじゃないの〜?」なんて言われた。でも、夫のそういった機能は何も落ちていなかった。それに、一番体調が悪かった時期よりもずっと話しやすくなり、私にも優しくなっていた。投薬をしなくても、時間をかけて回復する人も稀にいると聞いた。だから、いつでも乗れる医療のレールに無理やり乗せるくらいなら、私はとことん夫に付き合いたかった。それは、病気扱いしてくれるなという夫の願いであったし、夫と私の信頼関係であったし、私自身のとてつもなく大きな期待と抵抗だったんだと思う。

精神疾患は1人の患者を診ても、医師によって異なる診断をすることが多いと聞く。でも、一度診断を受けると、そこから見直されることも稀という。そんな知識は私がネットで得たものとか、小さなサンプルの論文で読んだものであるから、実際がどうかはわからない。でも、とにかく「病名に意味なんてないから」と言うような医師に、その後夫に一生覆いかぶさる病名を付けられることは、その重さと軽さの不調和もあって、前向きに考えることはできなかった。

それでも、夫が亡くなる1ヶ月前くらいからだろうか。もう夫も、私も、限界で、このままの状態で生きて行くことは難しいと感じるようになった。ここまでやったのだから、きっと今なら夫を医療に強制的に繋いだとしても、夫だって、後で理解を示してくれるかもしれない。2人とも十分頑張ったので、信頼関係だって崩れないのではないか。半ば諦めのような気持ちではあるが、そんな気持ちが私の中に生まれていた。

そんな気持ちになりながら、やっぱり最後まで私が実現させたかったことは、夫を苦しめた人に、夫の苦しみにちゃんと向きあってもらうことだった。彼らが手を汚さずに、夫だけを病院に放り込むことはしたくなかった。そんな理不尽なこと、フェアじゃないこと、夫だけに一家の苦しみをなすりつけるようなことを、私はしたくなかった。ここをコンプリートしてこそ、私は夫に顔向けできると感じていた。こんな変な正義感というか、正論というか、現実では実現しがたいようなことに、私は必死になって取り組んでいた。「できることは全てやったけど、それでもこれしかなかった」と夫に言える自分でありたかった。それが私の夫への誠意だと思っていた。でも、もうどこまでが誠意でどこからが自己満足や陶酔だったのか、わからない。

結果的に、私は夫のことを助けることができなかった。もっと早く、私が悪者になって病院に1人で押し込むべきだったのだろうか。自分の信念が間違いであったと認めたくないし、最後は事故のようなことだったと思うのに、それでも全てつながってしまい、思考を断ち切ることは難しい。

さらに昨日、これまであまり調べたことのなかったDという病気を知った。他の病気に症状は似ているものの、投薬によって病前の状態に戻ると書いてあった。そして、この場合は明確な苦悩からの発症というストーリーがあって、思考力や理解力も落ちずに維持すると書いてあった。よくわからないけど、夫はこれだったのかなあと思った。

結局は、わからない。脳に腫瘍でもできていた可能性だって今となってはあったかもしれない。私は、病名だけに圧倒されてしまっていた。「よくわからないから」と一生ものの病名をつけられてしまうのではないかと危惧していた。そして、「よくわからないから」と一生減らない投薬を受けるのではないかと思った。でも、それはそうではない医師を探せばよかったんだろう。よくわからない病名だからこそ、そこに意味を見出さずに、夫自身の状態をよく診てくれる医師がいるとわかれば、少しは安心できたのかもしれない。

昨日、母親にこんな話をしていたら、「夫くんは、そんな大変な病気じゃなかったかもしれないよね。電話とか、普通だったし」と言っていた。そう、そうだとしたら、一番虚しい。治療を受けて治る病気だとわかっていたら、私は夫が拒否しても、もっと早く病院に担ぎ込んでいたかもしれない。治らないからこそ、夫をその苦悩に放り込む前に、誠意を見せたくなってしまった。これから夫がきっと大変だからこそ、夫の病に全員が向き合う状態を作りたかった。でも、もし一錠の薬で夫のあの混乱が収まったとしたら、我々の日々はなんだったのだろう、ということになる。

全てはわからないことだから、迷宮入りだ。少なくとも夫と私のケースは、もう終わってしまった。色々な思いと考えと判断を混ぜながら、少なくとも自分たちが持ち合わせる力の全てを注いで取り組んだんだ。夫も、私も、お互いを褒められる自分たちでありたい。