優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

楽しかった伊豆大島

ぼけーっとテレビ番組を見ていると、15分に1回くらいは夫との思い出にぶつかる。

ひと昔前のように、お金をかけたスタジオ中心の番組制作がされていれば、テレビの内容が私のような一般人の思い出とリンクすることも、なかったかもしれない。

でも最近の番組は、私が夫と楽しんだ日本各地の風景とか、食べ物とか、観光スポットとか、そういうものが映ることが多い。元々、そういう番組の方がスタジオで大騒ぎ、みたいなものより好きだけど、やっぱり夫との思い出のど真ん中を突いてくる内容は、きつい。

今日は、海外からの旅行客がブラックサンダーが大好き、という紹介映像の後で、「ブラックサンダーは、あの内村航平選手の好物で一躍有名になったお菓子」とナレーションが流れた。内村航平と聞くと、私は夫のことを思い出す。夫が亡くなる2ヶ月くらい前、「みんみんが好きな内村航平が、今夜プロフェッショナルに出るよ」って教えてくれた。私は、確かに内村航平がかっこよくて好きだけど、番組を見るほどのファンではなかった。でも、体調の悪い夫がテレビ欄を見て、そのことを私に教えようと思ってくれたことが嬉しくて、嬉しくて、一人でその番組を見た。見ながら、ずっと夫のことを思い浮かべていたときの光景を思い出す。あの白い壁に、壁掛けテレビで番組が流れていて、私の頭の中では、番組とは関係のない色んな思いが渦巻いていた。一体2人の救いはいつ来るのだろうという、先の見えない不安に半ば潰れていた。あの時ならまだ、夫の命を守れたのに。あのまま、私が歯を食いしばっていれば、夫は今も生きてるのに。

今日の番組では、ブラックサンダーの話の後で、また別の旅行客がフェリーに乗って、伊豆大島に渡っていた。これにもまた、夫との思い出の地雷がある。いちいち書いてたら、これから私のブログは地雷ばなしだらけになっちゃうんだけど・・・でもそれが思い出と共に今を生きるということだから、しょうがない。

私が夫と交際を始めたのは21歳になったばかりの頃で、夫はまだ誕生日前で18歳だった。ずっとお泊まり旅行はダメと親に言われていて、初めて親公認で行けた旅行が、交際から3年以上(!)経ったあとの、伊豆大島へのフェリー旅行だった。伊豆大島へのフェリーは、東京の竹芝から夜出港して、翌日早朝に大島に到着する。この旅行が親に認められたのは、何を隠そう、宿泊場所がフェリーで、その寝方も大広間に雑魚寝だから(笑)夫と2人でフェリーに1泊して、朝から夕方まで伊豆大島にいて、夜には東京に大人しく帰った。なんという従順な2人!そんな制約は色々あったけど、この旅行が、とても楽しかった。フェリーから夫と見た朝焼けは、これまで見たことないほど鮮やかで、オレンジと紫のグラデーションがすっごく美しかった。大島に到着してからは、公共の温泉に入ったり、風呂上りに牛乳を飲んだり、おいしいお寿司を食べたり、海辺ではしゃいだりした。帰りの時間も近くなって、夕方に大通り沿いを夫と歩いていたら、なんと近くの民宿の方が車で駅まで送ってくれた。その民宿に泊まってもいないし、これから東京に帰る見ず知らずの観光客を送ってくれるなんて、その優しさに驚いて、今でも忘れられない。もしかしたら、帰りの便に間に合わなくて、走っていたんだっけ。そういう細かいところは私は忘れてしまう。だからこそ思い出話には夫が必要なのに。こういう思い出があるから、大島は、私にとっても、きっと夫にとっても、大切な場所。あの思い出の島に、また夫と行きたいと、ずっと思っていた。

テレビ番組では、4人家族が仲良くフェリーに乗っていた。その後日本中も、さらには世界中も旅をしていた。お父さんと、お母さんと、可愛いちびっこが2人。なんで私はもう、夫と旅ができないのかな。私も夫と一緒に家族を増やしたかったし、一緒に旅をしたかったし、あんな風に楽しい時間をたくさん、たくさん過ごしたかったな。

もうそういう運命だからしょうがないんだけど、まだ当面は、あるいはこれから一生は、どんなものを見ても、聞いても、こういうことをたくさん思い出すことになりそう。こうして懐かしんで、悲しんで、夫のことを愛おしく思う気持ちが、夫にもどうにかこうにか、伝わってるといいなと思う。

スタートライン

コロナが流行しているので、義両親の上京は今月は見送ると連絡がきた。

夫くんの百箇日にあわせて来てくれる予定だったけど、緊急事態宣言もあるので、とのこと。

年始以来、ご両親とは連絡を取っていなかった。お互いやりとりして、なんだか苦しいものがあるからか、連絡の頻度が減っていた。今日は、すっごくささいなことなんだけど、もらったメールで、「(夫の名前)の百箇日は〜」とあって、その名前と法要が隣り合わせになっていることがすごくリアルで、気分が落ち込んだ。そして、夫が亡くなってから、100なんていう少ない日数すら、まだ経ってないんだなあと思った。そんな日数、いくらでも取り返せそうなのに。実際は、あの死の一瞬以降は、そこからどんなに近い時間にいたって、何も取り返せないんだけど。あの日のあの瞬間を境にして、生と死、白と黒、天と地、そんな決定的で不可逆な変化が起こってしまった。

ちょうど今週は、夫の相続関連のことをちょっと調べないとと思っていた。夫の銀行口座には、夫が働いていたときの貯蓄がある。一般的には、配偶者はこどもがいない場合、その2/3をもらうみたいだけど、私は夫ならきっとご両親に渡したいのではないかと思って、そう申し出ようと思っていた。そんな中、夫が大学に通うために利用した奨学金について、想定外のことがわかった。当然と言えば当然なんだけど、相続人は、奨学金の支払い義務も引き継ぐものらしい。奨学金の残金と、夫の貯蓄と差し引きすると、奨学金の方が多くて、足が出てしまう。そうなると、相続割合をご両親に多くすると、負債になってしまうから、そんなことならやっぱり私が全部相続した方がいいかもしれない。夫が大切に稼いだお金は放棄したくないから、相続放棄という選択肢は考えたくない。そんなことを調べながら、夫の無念を想像して、また泣いてしまった。夫の実家が、奨学金を借りないといけない状態に陥ったこと。そのことにずっと夫が傷ついていたこと。こうして亡くなってしまって、親にお金を残せなかったこと。でもそもそも、奨学金を彼が背負ったのは親の責任であること。

こんなことなら、入籍と同時に2人の口座から一括で支払っておけばよかったと思った。私と一緒になってから、夫はあんなにやりくりをして、たくさんたくさん貯金してくれていた。そこから払えば、すっきりできたのに。確か、一度くらいは提案した気がする。でも、夫はそういうことは嫌がる。そういうところも、真面目で、責任感が強い。私が夫のことを「主夫」になったと思っていたのと違って、夫は必ずまた社会に出ようと思っていたんだと思う。そして、自分で返済しなければと思っていたと思う。私は、一体どうすればよかったんだ。奨学金って、あんな風に毎月口座からお金が引き落とされていくんだね。記帳してみて、初めて知った。この数字に追われることも、夫のトラウマとリンクして、苦しかっただろうなあと思った。全部、夫にとってはプレッシャーになっていたのかな。

私は、自分の大学の費用は親に出してもらったし、生活費だってもらっていたように思うし、何もしなくてもお金が湧き出る家に生まれたというだけで、何故こんなに夫と違う経験をしたのだろう。生まれとか育ちの格差とは、本当に不公平だと思う。そりゃ苦労した分、立派な人になる人も多いかもしれないけど、やっぱり一番いいのは、平等なんじゃないか。教育の無償化って、そう考えると、本当に大事だと思う。

21世紀に取り組むことがあるとすれば、今平然と受け入れられてる格差や世代間の負の連鎖を解消することじゃないかな。だって、なんの合理性もないんだもの。

私、この家に生まれるために、なんの努力もしてないよ?

スタートラインが違うなんて、あんまりだよ。

「遠くの親戚より、近くの他人」

私は数年前まで、自分の家族はとても理解のある人たちだと思っていた。

自分の家族に対して、私自身が苦しむほどの葛藤を感じたことはこれまでなかった。おそらく、家族環境への満足度は、ほぼ満点に近かった。

だからこそと言えばいいのだろうか。夫と私がもがいていることに対して、私の家族が遠目から見るようにしていたことが、ずっと大きな違和感として自分の中にあった。私はずっと、自分の両親をスーパーマンのように完璧と思っていたから、これほどに自分が大変になっている状況下で、「何をすればいいかわからない」と離れた場所から言い切られてしまうことに、がっかりしていた。怒りも、悲しみも、感じていた。

何をすればいいかなんて、県をまたいで離れた場所からは、当然わからなかっただろう。それでも、突然様子を見に押し掛けられて夫を変に刺激されても困るし、日時やタイミングを調整しないと、見にきてもらうことはできなかった。でも、そんな話になったら、面倒くさすぎて、誰しも日常的に介入する気は失せる。それはもう日常ではなくて、半年に一度のイベントでしかない。私の苦しみは日常だけど、両親にとっては、イベントなのだから、見えているものが大きく違った。私の両親は、私にとっては一番力になってほしい人だけど、本当の力になってもらうことはできなかった。

夫ともがく中で、そういうことに対する諦めも少しずつ私の中でつくようになり、私はイベント的でもいいから、自分の両親に相談やお願いをして、介入してもらうようにした。これまで、ずっと自由に生きさせてもらってきたのに、こういう困った状況になったら頼るなんてことは、確かにおかしいから、親の考え方も一理あるのかもしれないとも思った。夫も、私も、自立した大人であるべきだから。自分たちの人生がうまくいかないことの処理は、自分たちがやらないといけないのかなとも思った。そんな色んな考えが私の中では巡っていた。

今日お昼を食べながら、一体どんな制度があれば夫と私が救われたか、両親と話した。私は、「もっと私たちの苦しみの中に入り込んで、一緒に考えてくれる人がいればよかった」と言うと、両親は自分たちがもっと何かした方がよかったのかと聞いてきた。その質問は、きっと「いや、お父さんとお母さんは十分やってくれたよ」という答えを期待していたのだろう。私は、「そうだね、無理だったと思うけど、もっと入ってもらえれば良かった」と言うと、少し慌てていた。そして、あんな風にも、こんな風にも支えたと挙げてくれた。「前にみんみんだって、近くで支える人と、少し外から支える人が必要だって言ってたからさ」とも言われた。

でもさ、私にとって夫の次に近い人間は、お父さんとお母さんなんだよ?

そのお父さんとお母さんさえ少し外から支えてたら、一体だれが近くで支えてくれるの?

少し外から支えるのって、楽なだけじゃん。

それが親に求める本当の役割なわけないじゃん。

そんな確認を、夫が死んだあとに、私にしないでほしい。

言わなかったけど、そんなことを考えて、私は歪んだ表情で、親の言うことに頷いた。

夫の死後、私は自分の親に亡くなるまでの支えを感謝した。気持ちが落ち込んだ日に、「誰も駆けつけてくれなかった」と嘆いたときにも、自分の親はその対象から外すように話した。でも、本心は、違う。ずっと両親に、駆けつけてほしかった。もっと積極的に、一緒に悩んで、考えて、毎週、一緒になって次の一手を一生懸命提案して欲しかった。

実際は、ちょっと違った。ずっと気にかけてくれたけど、一緒に泥んこにはならなかった。一緒に泥んこになることをお願いすると、どことなく面倒臭がられたり、嫌がられたり、何度も意味を説明しないと、力になってもらえなかった。こんなことを夫が亡くなった後で両親にぶつけても、恨み合いみたいになってしまうし、何より両親の中でこれ以上夫に悪いイメージを持ってほしくないから、面と向かって言えないだけ。しかも、私だってどう助けて欲しかったのか、言葉にすることはできない。夫と言い合いをしながら、この瞬間に誰か入ってくれればいいのにとか、夫の緊張が少し解けた瞬間に、ここで誰か力を添えてくれないかとか、そんなことを思っていた。私ができたのは、そういうことを夫と2人きりで経験した後に、疲れ果てて親にメッセージして、親からは「そうなんだ、前と違うね」とか「変化を感じるね」とかそういう声かけをもらった。それだけでも有難いことだし、辛抱強く対応してくれたんだけど。それはわかっているけど、正直な心で言えば、それでは何も足らなかった。夫の力になるには、私1人では、力不足だった。

夫に関係した誰一人として、「自分はできることを十分した」なんて思っちゃいけないと思う。それを一番思って良いとしたら、孤軍奮闘していた私だし、私はそんなこと全く思っていないから、私以外の人はそんな救いを自分に与えないでほしい。誰も、夫の力になんて、ならなかったんだから。ならなかったからこそ、夫は亡くなったんだから。

私と夫が2人だけであの沼から抜け出すことはできなかった。もっと色んな人に、私たちの沼に膝まで一緒に浸かって、同じことを悩み、共に考えて欲しかった。膝まで浸かってくれる人は、最終的にはいなかった。そのことに、ものすごく大きな苦しみがある。

本来は、家族の中で、力を合わせられたら良かった。家族でありながら、夫と私以外が膝まで浸からずに、沼の外で過ごしてしまったのは何故か。一番大きな原因は、「物理的な距離」だと思う。どれだけネットや通信が発展したって、やっぱり物理的な距離は、とても意味を持つ。もし家族でないにしても、一緒に伴走してくれる他人が近くにいたら、私たちはあれほど孤立しなかったかもしれない。

「遠くの親戚より、近くの他人」

これは、本当に、本当なんだなあ。核家族化が進んだ世界では、尚更これを身に染みて感じる。この近くの他人同士が、どうしたらもっと愛情や関心を注げあえるようになるのだろう?

今日のお昼は、元々、そんな話を親としたかったのだけど、だいぶ外れちゃったな。

苦悩と宗教

本当に苦しいときって、例えば病院にいったり、カウンセラー に会ったりする気力や勇気が失せると思う。自分の苦しみが何重にも重なっていて、もはやこの複雑なものを理解したり、期待するような反応をくれる他者なんていないんじゃないかと思う。

夫が亡くなってからというもの、誰かに相談した方がいいほど私は苦しい状態にあるけど、第三者に相談したり、治療を求めたりしていないのは、そういう背景がある。一度だけ、会社で設置されてる医療相談窓口みたいなところで産業医に相談したら、「まー、旦那さんのような状態の人は、亡くなるもんだから」みたいに言われて、それで「あ、もういいや」と思ってしまった。産業医は、生きている私が気楽になる言葉と思って言ったのだろうけど、私は夫の尊厳を傷つけるひどい言葉だと思った。こればかりは、立場の違いなんだけど、医療はとりあえずいいやと思った。

それでも、慰めを求めてネットを彷徨っている。最近は、こういう状態に対して、現実的な慰めって、特にないんだろうなあと感じてきた。夫がいないという状況は覆しようがなくて、あとは自分がそれにどう向き合うかなんだけど、今は亡くなってまだ2ヶ月ちょっと。別に楽になる道があるわけでもなくて、ただ夫のことを思って、なるべく近くにいると思いたいだけ。それって、多分医療じゃないんだと思う。

いろんなSNSやブログで、同じような境遇の方の発信を見たけど、お互い重傷な状態にある中で、実はあまり慰められるわけでもない。みんな、いかに苦しいかを発信することに一生懸命になる。私だって、そう。楽しい話とか、明るい話を発信する自分なんて嫌だから、自動的にネット上の発信は悲しい話になる。同じような遺族の方とも、会って話せたら、また違うんだと思う。会って話したら、きっと最初の1時間くらいはお互いの死別の話をするけど、あとの数時間はただ楽しくお茶を飲んで日常の話ができるんだろう。日常の話をしながら、本当は苦しい気持ちがあるってお互いわかってるだけで、今私が会えずにいる幸せな友人たちとの関係とは違う、同志みたいな関係になれるのかもしれない。相手が突然泣きだしても、自分が突然眉間にシワが寄っても、お互いそういうもんだよ、大丈夫、と慰め合えるかもしれない。でも、まあ、そういう死別コミュニティみたいなものは、今のところ一切参加していない。

そんな感じでネットを彷徨った結果、今の自分に一番の寄り添いを感じるのが、お坊さんが相談者の悩みに答えるサイト。相談者はいろんな人がいて、死別に限らず、いろんな人生の苦悩を吐露して、それにお坊さんが答える。お坊さんの答えって、現実を超えた、何か超越的な世界も含めて、若干ファンタジーみたいなものも含めて、あるいは信仰心とか、仏の世界も含んでる。今、目に見えるものに救われる要素がなくて、なにかそれ以外のものにすがる自分には、フィットする。

夫が亡くなったとき、「夫くんは何があれば救われたのだろう」と父と話したとき、私は現実的なソーシャルサービスみたいなものを挙げたんだけど、父は、「やっぱり宗教かなあ」と言った。父は、けっこう現実主義なので、宗教への親近感とか、信仰心はないはずなので、意外だった。父も年齢を重ねて、現実だけで説明したり、乗り越えられない難題に遭遇して、今はそういう境地にあるのかなあと思った。そして、最近、私自身、確かに〇〇病とか、〇〇症とかラベリングされることなく、丸ごと包んでくれる宗教は、救いだなと思うようになった。

夫が亡くなってからずっとテレビ番組の内容がどうでもよすぎて集中できなかったんだけど、亡くなって1ヶ月くらい経った頃に、京都の尼寺のドキュメンタリーみたいなものを見た。山の上で尼さん2名とお手伝いの方が3人仲良く暮らしていて、とても穏やかな気持ちで見ることができた。なんでだろう。この人たちなら、今の私の状態を、病名でジャッジすることなく、当然の人間の苦悩として、受け入れてくれるかもしれないと思ったからかな。京都のお寺だから私の家からはとても遠いのだけど、今すぐ行って、私の気持ちを聞いてもらって、何か言葉をかけてほしいなあと思った。

歴史上、宗教は争いも産んできたから、私は諸手を挙げてそれを賛美はできないのだけど、精神的な支えと言う意味では、生きることを正とする社会であるならば、もっと浸透してもいいのかなと思う。夫が亡くなったとき、私に尊厳死という選択肢はなかった。とても苦しいのに、それでも遺族はとにかく生きることを要求される。そして確かに、生きたいという気持ちも、自分の中にはある。これまで私は、ずーっと科学信仰で、証明できないことは誤りだと思ってきたけど、さすが歴史を通じて人間が生み出しただけあって、やはり宗教というものは、苦しみに陥った人間が生きていくために、必要なんだと思う。

と、そんなことを考えた後で、突然思い出した。夫が体調を崩すわずか数週間前、広尾のお寺で開催されている座禅会に2人で行った。いろんなことにやる気をなくして、厭世的になっていた夫が、めずらしく意欲を見せて、行くことにした。でも、ちょうどその前に私の姉のアパートに2人で行っていて、少し出向くのが遅くなった。広尾の駅から走って、17時の開始ぎりぎりにたどり着いたのだけど、もう参加人数も満席で、時間も遅いということで、参加できなかった。その後、再度座禅会に私たちが向かうことはなく、夫は発症した。

座禅会に行くことを提案したのは、夫だったと記憶している。夫は、私の姉のアパートなど早くあとにして、座禅会に向かいたかったかもしれない。でも、きっと私がだらしなく、だらだらしたのだと思う。夫は、早く行かないと遅れると言い出したかったかもしれない。夫は、とても時間の管理が上手なので、きっと遅れることくらい、事前にわかっていた。そういう場所につながることができれば、何か救いがあると夫は感じていたのかも知れない。もし座禅会に参加して、お坊さんの説法を聞いたら、そこで夫は涙して、自分の苦悩を吐露できたかもしれない。カウンセラーとか、医者とか、そういうものに関わることは嫌がったけど、きっとこういう形であれば、夫は人とのつながりを持てたかもしれない。そんなきっかけが夫の発症前にあったことを、ずっと忘れていた。

こうして私は自分自身の苦悩に向き合う中で、また夫にしてあげられなかったことを、一つ思い出した。心の中で詫びることしかできないから、またとても辛いし、悔しい。どうにも、こうにも、残念ながら取り返しはつかない。

おたまじゃくしはどこまでも

今日は、今年はじめてくらいに、外の気候が春めいているのを感じた。

もちろん、引きこもりの私は家の中から見ただけだけど 笑

これまでの冬一辺倒の雰囲気とは、だいぶ違う。

私は、春夏秋冬、どの季節も好き。

春は、気持ちが上ずって、そわそわする。

春には、春ならではの空気感がある。

冬の間、ずっと眠っていた生命が芽吹く感じとか、そこから蕾が花開いていく感じ。ちょっと前まで、寒々しかった景色の中に、淡く可愛らしい色がぽこん、ぽこんと置かれていく様子。人間も、出会いと別れを経験して、人としての深みや経験が重ねられていく感じ。寂しさとか、嬉しさとか、いろんな感情が重なって、ちょっとドキドキして過ごす。そんな中で、春の暖かい日差しを浴びて、少し甘い空気を吸い込むと、冬の間に縮こまっていた体がぐーっと伸びて、ほぐれる。

今年も、もうすぐそんな季節が始まるのを感じる。

今年の私は、どんな風に春を迎えるのだろう。

私は春ど真ん中に生まれたので、なんとなく春に親近感を抱いている。

私の誕生日は、いつだって春爛漫の中で、人にも、自然にも、祝福されるように過ごしていた。年齢が年齢なので、誕生日を迎えることは嬉しくはなかったけど、その日の特別感とか、祝ってもらうことの喜びは、何歳になってもあった。今年は、どうだろう。もう、そんな明るくて幸せな誕生日は、こないんだろうと思う。今年の誕生日は、今から憂鬱で、怖くて、自分が夫の知らない年齢になってしまうことが、やっぱりすごく悲しい。全然、楽しみなんて、ひとつもない。

普通に生きているだけで、どんどん夫から引き離されてしまう。1日1日を乗り越えることが、今私に課せられたことで、それを達成するために生きているのに、その試練を乗り越えれば乗り越えるほど、夫が遠い存在になっていく気がする。

今日は夫が買ったコーヒー豆でコーヒーを淹れながら、こんなことができるのも、時間の問題だなと思った。今、私はまだ夫に囲まれて生きている。主夫であった夫が買ってくれた食材を食べたり、日用品を使ったりしている。これ、まとめ買いしてくれてたな、とか、一度もストックが途切れないように、一生懸命やってくれていたな、とか、色々思う。毎日思う。毎瞬、思う。こういう夫の温もりみたいなものが心の拠り所になっている。これが、消耗品で、有限だから、食べたり使ったりすればするほど、一つ、また一つと、減っていく。それが苦しいから、消費するか、しないか、迷ったりもする。

何がいいのかは、自分でもわからない。私の部屋には、夫がくれたプレゼントがたくさん並んでいるけど、夫だけいなくなって、プレゼントだけ当時の形のまま完璧に残っているのもまた、ずしんと重たい。目にして嬉しい瞬間や、愛おしく感じる瞬間もあるけど、ただ悲しみだけ感じることもある。だから、減っていくもの、消費していくもの、なくなっていく温もりも、ある種大事なのかもしれない。

本当は、こんな自分のことは、どうでもいいのだけど、考えやすいから、そっちに逃げてしまう。こうやってぼんやり考えているときは、自分の気持ちが、頼りないおたまじゃくしみたいに、暗い中をひょろひょろ泳いでる感じ。どこに行けばいいのかわからないし、絶望の渦中からも逃げている。人生を盛大に祝福されていたおたまじゃくしは、その全てを失って、これからどうやって生きていくんだろう。虚しいし、悲しいなあ。

男性である夫と女性である私

夫は私の行動を咎めたり、考え方を正そうとすることって、ほとんどなかった。

私が夫のことを好きだった100くらいある理由の一つに、夫が私をコントロールしようとしない、ということがあった。

これは私の完全なる勘違い野郎的な思い込みかもしれないけど、世の中には、なんとなくお兄さん的に接してくる男性が多いなと思う。実際に年齢は年上だったりもするから、そのせいもあるんだと思うけど、なんというか、会話していると、自分は相手が気分よくなるお手伝いをしているように感じる。柄にもなく尽くす自分とか、制御される自分みたいなものを感じて、なんとなく居心地が悪い。なんとなくどことなく、相手は私の勢いみたいなものを手懐けて、扱える自分のことが好きなんだろうなと思う・・・めちゃくちゃ性格悪い分析なんだけど、なんとなくそんな風に思ってしまう。昔むかーし、「人形の家」という本を読んで、結構刺激を受けたことがあった。世間一般の男女関係は、どことなくあのストーリーと重なる。

夫は、私が一人でぶっ飛んでいれば、それをそのままにしてくれる。ちょうどいい感じに我関せずでいてくれながら、何かに一生懸命になっている私には心から親身になってくれた。私をコントロールしようとか、制御しようとか、そういう感じが、全然ない。夫は私とのやりとりを、そのまま自尊心につなげようとしない。それが、私には、人としてものすごく尊重してもらっている感覚があって、夫への尊敬の気持ちにも繋がった。今となっては、私の方が夫から搾取して、自尊心を高めていたように思えて、どこまでも自己嫌悪に陥るのだけど。

夫は、女の人のことを普段から「女性」と呼んだ。そんな人、身近にはあんまりいない。夫は気心の知れた女友達はいなかったし、夫にとって女の人とは、ずっと「女性」だったんだと思う。そんな風に女の人を自分とかけ離れた存在のように表現しながら、夫は世間一般が共有する女性へのステレオタイプ的な感情も持っていなかった。夫は性別に関わらず、どこまでもフェアだった。きっと、男性も女性もあらゆるジェンダーも全て、「人間」くらいの括りだったのだと思う。それって、私だって達せられていない境地だと思う。

一方で、夫は男性である自分に課せられた社会的な目標、すなわち地位とか名誉を得るという呪縛には、最後の最後の最後まで、呪われ続けていたと思う。あの呪いを、一緒に解きたかったのに、解くことができなかった。あの呪縛を解ける人は、それを夫に擦り込んだ人しかいない。その人を呼び寄せ続けたけど、間に合わせることはできなかった。

世の中では女性の社会進出が一大テーマとして扱われているけど、本当は男性だって、社会での活躍を至上命題にさせられて、みんながみんな嬉しいわけじゃないと思う。夫は、女性をとても羨んでいた。自分は、本当は定型の仕事が向いているのに、それで雇ってもらうことができないと悩んでいた。女性には今や、自分のライフスタイルや考え方に合わせて仕事を選ぶ道があるけど、男性はいまだ、女性で言うところの「バリキャリ」しか道がない。もし夫が女性だったら、きっと何倍も、何倍も、生きやすかっただろう。もっとずっと自己を肯定できただろう。要は、性別に関係なく、自分に合った仕事を選べる世界にする必要があるんだと思う。それをせめて家庭の中では実現させたかったし、させようと思っていたのだけど、うまくいかないまま、終わってしまった。私は一貫して夫を尊重したくて、夫が無理して働くべきなんて主張はなかったけど、夫は呪縛と闘ったまま、ずっともがいていた。喧嘩のときには、私もその急所を突いた。その後悔も、ずっとしている。心にもないことを言った。夫もさすがに私の本心とは思っていないと思うけど、混乱が過ぎてそう思った可能性もあるし、そう思わなかったとしても、言われて嬉しいことではなかったと思う。

世の中がなんと言おうと、親になんと言われようと、気にせず我が道を突き進める人もいる。でも、その両方をとても気にして、追い詰められる人もいる。とても気にしてしまう人がいる限り、世の中の押しつけとか、偏見とか、固定観念は、なければない方がいい。女性の生きづらさと同じように、男性の生きづらさだって対処していくことが必要だ。今の社会が全てのジェンダーに対して抱く固定観念みたいなものを、破壊して、どんがらがっしゃんできたらいいなと思う。

悲しみの中でじっとする

本当に大した乱高下だ。

数日前、いても立ってもいられないほどに苦しかった気持ちは、今日はストンと落ち着いている。夫のことを考えずにいられるか、いられないか、日によって全然違う。

夫について考えずにいられない日は、そもそも頭の中のすべてを夫が占めていて、苦しさが私の身体中に充満して、わなわなしている。夫の写真を見たり、言動を振り返ったりせずにはいられない。仕事だって、集中していると罪悪感で心がパンクしそうになって、リモートの会議が終わった瞬間にPCを閉じて、大声を出して泣く。

考えずにいられる今日のような日は、心が穏やかだ。ボーッとしているとも言えるかもしれないけど、どちらかというと、穏やかという感じ。心のとても浅いところで「夫くん〜」なんて思いながら、仕事に取り組むことができる。思い出の苦しいところに深く沈み込んでいかない自分を、責めずに放置している。平然とする自分にそこまで罪悪感を感じない。会議の前後で、パンクして泣かない。ただ普段通り1日の勤務を終えた。

これは、ホルモンバランスによって変動しているのだろうか。同じ人間なのに、過去数日と今日は、だいぶ違う。ホルモンと関係あるかないかはどうであれ、悲しみや苦しさを一定期間溜め込んでは、リリースするような作業なのだろうか。自分では全然わからない。

しかもこれは行ったり来たりする波なので、またこの静けさの後には嵐がくるとわかっている。とにかく一喜一憂もできない。そもそも、どの自分に一喜して、どの自分に一憂すればいいかの価値判断もできない。夫から心が離れる自分は嫌だ。でも、苦し過ぎて潰れそうな自分も危うい。潰れずに夫を思うということをしたいけど、苦しすぎるテーマで、そんなことは恐らく不可能に近い。だから、こうして潰れそうなところまでいくと、サーッと波が引くように落ち着いて、また体調が許せば悲しみに戻るということを、無意識のうちに繰り返しているのかな。

今日だって、こうして仕事が終わった後は、また夫の写真が見たいし、夫のことを考えたいし、夫のことで涙したいと思っている。そのレールに乗っていけば、またすぐに悲しみの海に戻る。それをしないと、自分の存在意義も感じられないから、きっとそうするんだろうな。もう自分は何がしたいんだろうな。。。

乗り越えた後に夫がいるなら、この荒波のような周期にも全力で取り組むんだけど。目的がなく頑張るなんてこと、経験したことがない。経験したことの有り無しというより、単純に論理破綻なんだけどね。あえて設定するなら、頑張る目的は、死なないためなんだろうか・・・。

この状態を抜け出すということは、きっと夫がいないことを受け入れて割り切ることだし、抜け出さないと一生苦しくて生死の淵を這ってるようなもんだし、どの道もいやだ。

やっぱり最後は、とにかく今いる場所でじっとしている時期なんだという結論に至る。

悲しみの中で、じっとしていよう。それが、大事だね。