優しくて可愛くてかっこよくて大好きな夫と死別しました

事故か自死か。夫が消えた人生をこれから歩みます。なんて自分が書いてることが信じられない35歳です

もう私が正しいとわかっているのだけど

前回の投稿からまた数ヶ月が過ぎた。

前回の投稿は、役員との対決直前に書いたものだった。

皆様に可愛いスタンプをたくさん押していただいて、とても心強く勇気づけられたので御礼申し上げたい。実は時々スタンプの様子や読者のカウントを見にブログを開いたりしている。

前回投稿時の人事部との対決の様子は、前回エントリーで事前に思い描いていたものの通りとなり、私は予定通り少し遅れて会場につき、役員や部長職が頭を下げる中ふんぞりかえって席に座り、「で、はじめて?」くらいの勢いでクソ生意気に面談を開始した。

それにしてもその面談は出席しながら辟易としかしないものだった。「誠心誠意みんみんさんの訴えに向き合ってきました」という役員に対し「じゃあなんであんなに全て握りつぶしたの、私のこと若い女だと思ってナメてたんでしょう、適当にあしらってれば黙ると思っていたんでしょう」と私は憤った。役員の人生60年かけて磨き上げた建前と、私の人生40年弱かけて鍛え続けた直球意見がぶつかり合い、どこまでもお互い理解しあえずに、とりあえず今日あなたたちが報告した回答はなにもファクトに基づかず、真実の追求もできてないから、しっかり再考し直して社長の了解得てから出直してこいやと差し戻しにした。

その後、新しい人事部長も交えて面談をしたのが先々週。そこでもまた全て何事もなかったくらいに論点が初期化されていたし、みんみんさんに過度な業務の要求が生じたことはなかったし、当時の管理職にはオンライン面談だけして人事評価はお咎めなしとのことだったので、いやいやいや、あんた大丈夫ですかいと言わんばかりに矛盾点を指摘しまくって差し戻した。

私は一体何度、どれほど、差し戻せば良いのだろう。みんな真剣に誠意を持って本件の解明に取り組んでいれば、1時間やそこらの面談で若輩者の私から説き伏せられて引き下がることなんてあり得ないはずなのだけど、それは彼らが投じている労力がその程度であるということの証明に他ならない。私が色々な矛盾点を指摘すると、その2倍、いや3倍くらいの時間をかけてどうしようもない一般論を訴えられるので、私は呆れた顔で「いやいやそれ意味ないってわかるでしょうが、んなこと今更言って私のこと納得させられるわけないんだから時間無駄にしないで」と言うと最終的には「そうですね」と言ってくれてしまう。

直近の面談で、内部通報の担当部長もいた。私は彼に、「私に守秘義務はないですよね」と聞いた。すると彼は「私どもにはありますが、みんみんさんにはありません」と教えてくれた。

これで私は大手を振ってブログを書けるというものだ。

闘いは地味に地味に続いているが、私が呆れきってしまっている。

呆れきってしまっているが、最後までとりあえずやりきろう。

腐った組織を超えるしぶとさを自分が持つこと

もはや我が社に期待なんて微塵もしていないのだが、前回の監査からの結果報告の後、1ヶ月以上経っても誰からも何も連絡がこなかった。私が投げ込んだボールは、監査の人や、会社トップや、トップを取り巻く部下や、今回の判決を受けた人事部の間で恐らくキャッチボールされたまま、私はその輪から取り残されているようだった。私の事案なのに?私に対する連絡は?私が求めた謝罪はどこへ・・・?

そこで1ヶ月過ぎたあたりで、監査の方に連絡した。謝罪を求めたのにまだ受けていない。人事部からも音沙汰ない。監査はこの状況をどう思っているのか。監査は進捗のモニタリングをしないのか?モニタリングしないなら、再度私が労基署に・・・と言い切る前に、「モニタリングはします」と言われ、監査から人事部をつついてくれた。その更に数週間後となる先週、人事部から私にメールが舞い込んだ。

タイトルは「情報共有」。人事部の差出人は、これまでずっと埒のあかないやり取りの相手であった副部長ポストの男性。「ご無沙汰しています。元気にしていますか?・・・社長から何点か指示をいただいたので、今対応検討中で、みんみんさんにも情報共有します。暑いですがご自愛ください」というもの。

意図的にそのようにしたのだと思いたいが、これは私の心情とあまりにかけ離れたトーンだった。女であること、年少であることとは、これほどにナメきられてしまうのか。ccに入っていた最近着任した新しい人事部長の男性含め、被害者である私宛に、加害者でありクロと第三者が認めた人事部から、このトーンのメールはおかしいだろうと気づくことはできないものなのか。

そこから私と人事部のバトルが再開してしまった。私が求めるのはもちろん謝罪だ。謝罪をするなら会うが、せずに「情報共有」はおかしい。そもそも第三者まで巻き込んで私の主張が正しく人事部のあらゆる対応が誤っていたとお墨付きがついたあとで、第一声が謝罪ではなく、ご報告でもなく、情報共有だなんて到底受け入れられない。そんな私の遺憾の極み的トーンに対し、人事部は、「そういう要望は面談の際に聞きます、それが嫌なら面談はしません」と言ってきた。

ちょっと待てと私は思う。

そんな安っぽい啖呵を切ったところで、この私が怯んだり諦めないことなんて、この2年半に君は学ばなかったのか。そんな役職や性別の威厳頼みの議論があるか。そんな稚拙な2択など、私が大人しく従って選ぶわけないじゃん。。。

私は改めて、謝罪するのか、謝罪しないのか迫った。謝罪するなら元人事部長で私の事案を握りつぶしながら役員になった男の出席を求めると伝えた。これを受け入れないのであれば、交渉は破綻で、私は再度動きますと伝えた。

この間にも、私は外部の相談窓口に交渉の進め方を相談していた。人事部が何について謝りたいのか提示させ、その事象が起こった背景や理由を説明させると良いのではと助言をもらい、ふむふむ確かにそうだよねと思いそのまま人事部にぶつけた。さらにはそれも交渉が破綻するようであれば公的介入/仲裁を受けることができるとのことであった。

何度か牙を向き合う非生産的なメールが往来した後、副部長クラスの男性は後ろに下がり、新しい人事部長がメールしてきた。私が要求した通り、当時の人事部長(現・役員)も交えて面談の場を設けたいと申し出た。私からはだいぶ頼りないが監査も同席させるように求めた。だから出席者は私、監査、人事部長、人事副部長、役員の5名だ。

明日、その機会が設けられることになった。ちゃんとした謝罪の準備をしているのか疑心暗鬼になり、前日夜だが再度要求をメールで全員にリマインドしておいた。謝罪事項の提示、その背景や理由、具体的に誰がどんな意図や狙いであんなに誤った指示をしたのか絶対有耶無耶にせず説明しろと書いた。更にはもう監査の検証を通じて第三者からも私の主張が正しかったと認められたんだから、立場わきまえなさいよ、誠意ある対応に期待します、と締めた。

きっと相手はしつこい奴だと思っていることだろう。

でもしつこくなるのも当たり前だ。まったく彼らを信用していないから。明日少しでもこちらが緩めば、すかさず朗らかな笑いを入れてきたり、「未来志向」とかいって良い話にしてまとめようとたり、魂胆なんてなかったとか言ってくるから。魂胆あったに決まってるだろう。君たちには真っ黒な性悪説だ。「こんな若い女が一人で主張してることなんて、適当に問題はなかったと繰り返せば、諦めて黙るでしょ」と思ってたんだろう。私は残念ながらその像にはあてはまりませんでしたね。

本当は明日、どれだけ要求したところで、謝る気持ちのない人たちから誠意ある謝罪をもらえるなんて微塵も思っていないから、むしろ私が満足のいく対応を引き出すまで絶対にひるみたくない。最終目標は今も土下座だから。そしてご丁寧にも会場は役員フロアで、役員の威厳を保つつもりでアレンジしたのかもしれないが、私は横柄な役員がするように遅れて行きますし、部屋のドア付近の下々たちの席なんか座らずに、上座に座るのが私ですからね。上座に役員がぼけっと座ってたらどかして座ります。

頑張っていってきます。

 

パワハラ問題・フィナーレ近づく

このブログを長く読んでくださった方なら、夫が亡くなって1ヶ月ちょっと経った頃、私が自分の会社のトップ宛にメールを送ったことをなんとなく覚えていてくれているだろうか。夫の死にも繋がった病を発症したとき、私は職場でパワハラ被害に遭っていた。当時の上司から不可能なノルマを与えられ、過労死ラインを超える残業を連日強いられ、そのまま不眠の2泊5日の海外出張に追い込まれ、また前任の不正・粉飾の報告と更なる上塗りのために心身を削って3週間ぶっ続けで働いた。私は当時、連日午前帰りで、意識朦朧と過ごしていた。心身がおかしくなる感覚があった。自分の隣で夫の体調がそんな坂道を転げ落ちていることに、愚かな私は気づけなかった。お互いが極限に達したところで出張に旅立つ数十分前に口喧嘩をして、私が出張から戻った3日後、夫が発症した。

私のチームでは、この上司の采配下にあったわずか2年のうちに何人もの20代・30代の優秀な後輩たちが精神的に追い込まれ、病気の発症から休職や退職を余儀なくされた。激務から次第に口数が少なくなり、出社ができなくなるギリギリのところで救われた者もいた。当時も人事部に情報は入れていたが、「大変ですね」という人ごとのような返信しかなかった。「そういうものなのだろうか、でもこれは絶対におかしい」。私はそう思いながら、後輩が倒れ、夫も恐ろしく体調を崩す中で、人事部につっかかっていく余裕はなかった。ただ周りの人を生かすだけで精一杯だった。

夫が亡くなって、この一連のことをトップに訴えた。トップは、その晩にメールの返信をくれた。私はこの人は信頼に足る人だと感じた。トップは人事部に経緯について検証指示を出した。これが2021年1月。そこから2022年末までの約2年、人事部は私のことをどこまでも騙し、丸め込むような対応を取り続けた。時には人事部長を筆頭に、3人ものシニア管理職の男性に囲まれ、「何も問題はなかった」と諭されることもあった。その度に私は猛反論して、継続協議を求めた。この不毛なやりとりが続く中、当時の人事部長は会社の役員に昇進した。全てを握りつぶしてでも昇進したかったのか、本当に残念な人だなと思った。人事部長は私に検証結果を説明する際、「本件に関係ある方々には、人事部として相当丁寧なヒアリングを行なった。その結果、他の誰からもパワハラの声はなかった。なので問題はなかったと判断した」と話した。後になってわかったことだが、思い切って後輩に裏取りしたところ、当時人事部は私が名前を挙げた誰にもコンタクトしていなかったことが判明した。どんだけポンコツ野郎なんだ。ポンコツなだけじゃなくて、あまりにずるく、姑息だ。

2022年、過去1年に亘ってやりとりした経験を踏まえ、このままこの人事のポンコツたちとやりとりしていても永遠の平行線しか辿らないことは薄々感じ取っていた。そこで私は労働基準監督署に行ってみることにした。(死別の大怪我を心に追っているので、こういう一つ一つの動きや判断はとても時間がかかる。ましてや誰にも相談せず、完全なる孤軍奮闘なので、テンポがかたつむり並に遅いことは目をつむって欲しい。)

労基署では窓口で経緯を伝え、相談員の方からたくさんの助言をもらった。組織の中で私が取れる方策や、裁判をした場合どうなるか、調停だとどうなるかなど、私が知らないことを色々と教えてくれた。そして話していく中で、私が訴えていることが決して感情論ではなく、正当な内容であることを再確認することができた。

労基署にいただいた助言を携えて、私は人事部に最終通告をしつつ、会社の監査に対し内部通報を行なった。それが2023年2月のこと。それから4ヶ月たった今日、監査から結果説明をしたいとの連絡があった。

「今度こそ組織内で取れる最後の手段の結果が出る。これでまとまらなければ、私は裁判に進まなければならない。今日は絶対に決めたい。ナメられない服装にしなければ!!」と思って服を選んだら、全身黒の喪服コーデになった。

面談に座ると、先方は男性2名。私の前に結果の紙がぺらっと置かれた。ない速読力を使って速読を試みた結果、どうやらどうやら、んん??、お、相手に非があると書いてる!!上司も人事部もおかしいって書いてる!!ふあああああああああああああ、と安堵した。「ここには公正に検証してくれる人がいた・・・」と力が抜けた。

監査からは、紙に沿って、どんな理由や解釈によって私の訴えが認められたかの説明を受けた。当時の上司に問題があったこと、粉飾した前任や前任の管理者にも問題の責任があること、その後の検証にかかる人事部の対応が不適切であることなどが認められた。私にしてみれば、どれも疑いようのないほどに確たる事実だったけど、それを第三者に認められたことで、これまでの取り組みがようやく形になったと感じた。監査の検証の過程では、外部弁護士にも関わってもらったそうで、全て私が揃えて出した経緯書に基づく検証だったが、追加のヒアリングもクラリフィケーションもなくこのような結論がでたことは私の思考の的確性を後押しされたようで嬉しかった。今後はトップから人事部に対して指導ののち、人事部から元上司への指導、再発防止策など改めて検討されるそうだ。

面談の最後に質問や要望を伝える時間があったので(監査としては要望を受けるつもりはなかっただろうが)、私はペラペラと喋り出した。そして、要望を伝える中で、「当時の人事部長、すなわち、あの役員からは土下座が欲しい」と伝えてみた。

次のブログエントリーは、ぜひ「ポンコツ役員から土下座を受けたこと」というタイトルで書きたいと思っている。監査からは他の質問などもあわせて「持ち帰り検討します」と言われているので、是非組織のお偉いさんたちの間で、土下座の妥当性について、喧喧諤諤の議論をしていただきたいと思う。

 

 

恋しい

6月15日は夫くんとの交際記念日だ。今年で交際から17年。こうしてこの数字を言う時に、自分がこの世界で一人残っていることになるなんて、想像したことはなかった。

以前もここに書いたと思うけど、交際記念日はお互いに1000円のプレゼントを交換するのが学生時代からの決まりだった。限られた予算の中で、どっちが相手にぴったりのいいプレゼントを選べるか。大体いつも夫くんに軍配があがっていた気がする。私が無難に無印とかカルディとか実用品をパズルのように組み合わせて超お得な1000円セットを生み出すのに対して、夫くんはドリーミーで可愛すぎる1000円のプレゼントを選んでくれた。亡くなる2年前、最後に交換できたときにもらったものは、シースルーに小花の刺繍が散りばめられたソックスだった。こんなに可愛いものを選べる大男がこの世にいるだろうか?私は夫くん以外、絶対に絶対に、絶対にいないと思う。

今日は普段通り在宅で仕事をしたんだけど、せっかくの記念日なので、何かしようかな、何ができるかな、ともやもやと考えていた。夫くんの好物を食べようかなとよぎるけど、そんなことをしても胸が張り裂けるほど虚しいじゃないかと慌てて頭の中で考えを消した。朝も昼も夜も特に食べたいものは思いつかず、ああそうだ、数日前につくったトマトソースがあるやと思い、これまた数日前に作ったささみのフライと茹でたブロッコリーも入れて、上からチーズをかけたトマトパスタを作った。作りながらふと思い出した。私はパン作りが趣味で、あらゆるパンを作っていたんだけど、夫の病が再発する少し前はピザ作りにハマっていた。NY在住のイタリア系の人のレシピをわざわざ調べてトマトソースを作ってピザにしたんだけど、夫くんはこの味じゃないという。夫くんとはNYにあるGAIAというとびきり美味しいイタリアンに何度も通ったんだけど、そのレストランのトマトソースはすっきりとしてて、濃厚だった。私が見ていたレシピは、普通のトマトにあれやこれや隠し調味料を入れるものだったので、もっとシンプルなのがいいんだなと思い、またレシピを調べ上げて、トマト、にんにく、オリーブオイルと塩だけのソースに辿り着いた。夫くんはそれを美味しいと言ってくれた。今日、目の前で作っていたのはまさしくそのトマトソースを使ったパスタだった。

夜になって、郵便受けに今日の郵便を取りに行った。私宛に来る郵便など、本当に意味のあるものはないので、ほとんど暇つぶしに毎日見るようなもんなんだけど、今日は仰々しい封書が入っている。表に返してみると、私と夫くんの2人連名の宛名で、アメリカに住んでいた時代の銀行からのお手紙だった。夫くんが亡くなってから、夫くん宛の郵便なんて、受け取ったのは初めてなんじゃないだろうか。ましてや夫くんと私が連名でくる郵便なんて、死別から2度も引っ越した私のこの家に届くわけもなかった。それが今日この特別な日に届いたので、嬉しくて、悲しくて、嬉しくて、ぽろぽろ泣いた。宛名に並ぶ二人の可愛い名前を見て、夫くん、アメリカが大好きだったから、嬉しいかな。喜んでるかな。そりゃ嬉しいよね。夫くんもこのお家に一緒に住んでるって感じだもんね。そんな考えがぐるぐる頭の中を巡った。

その後もっと夫くんに会いたくなって、久しぶりに夫くんの洋服を入れている袋を取り出してみた。夫くんの洋服はダンボールに入れているものが多いけど、彼が亡くなる直前まで持ち歩いていた一式は、あの日からずっと大きなビニール袋に入れている。Tシャツ、肌着、スパッツ、シャツなど。まず部屋の中をよく換気して澄んだ空気にしてから、夫くんの洋服が入った袋に顔を埋めたら、そこにはやっぱりまだ夫くんの匂いがあった。夫くんの匂いだ、夫くんの匂いだ、と嗅覚への刺激と合わせて涙がぼろぼろでてくるんだけど、決して袋の中を濡らすわけにはいかないから、潜水するみたいに何度も嗅いでは頭をあげて泣き、嗅いでは頭をあげて泣き、最後は大きな袋を全力で抱きしめて正座したままおんおん泣いていた。もうずっと幻みたいに遠く離れてしまった夫くん。実在したかすらわからない夫くんの生きてる匂いがそこにはあって、ものすごく恋しい気持ちが溢れた。ずっとこの気持ちをまた開けるのが怖くて、袋に触れてなかったから、今日は夫くんを感じることができてよかった。夫くんのことを考えると、こんなにも気持ちが優しく丸くなるなんて。こんなにも恋しくて苦しいだなんて。たった一人であの日からずっと、耐えてるんだあ。

 

喫茶店で泣く

死別して最初のGWをどう過ごしたか記憶がない。このブログを遡って読めばわかるのだけど、その気力がないからそんなことはしない。自分がもがき苦しんでいる記事を振り返ることは、けっこうエネルギーを必要とするから。あの頃は、まだ彼がどこかにいるのではないかと期待していたと思う。今はその期待は消えてしまったな。諦めはつかないし、つけないと誓っていたのに、もう2年以上に亘って死別という拷問を受け続けて、いよいよ諦めもついてしまったのかもしれない。彼はどこにもいないし、もう戻ってきてはくれない。

去年のGWは突然思い立って、生まれて初めて福岡に降り立った。そこで福岡各地で人の優しさに触れて、これから取り組んでみたいことを思いついたりした。

今年のGWもきっと同じような衝動が生まれるといいなと思いながら、まったく計画がないまま連休に突入した。去年の旅行だって、GWに入ってから決心したので、今年もそういったインスピレーションさえ降ってくれば、誰とも話さない地獄のような9日間にはならないはずだった。

ところが、そのインスピレーションは今年は降ってこなかった。だから、もう連休に突入して7日になるけれど、今日まで誰とも会わず、話さず、ただ連日自室でジャンクフードを食べて、酒を飲んで、ぶくぶくと増量しながら過ごしている。朝から晩まで、ずっとスマホ片手に、どうでもよい情報を頭の中に垂れ流して過ごしている。朝から晩まで。本当に朝から晩まで。

そんなことをしていると自分の醜態に嫌気はさすし、無気力感は増幅していくし、良いことなんかない。でも、私は自分に甘いので、「こうやって自分の部屋に篭って、私は私を守るんだい!人混みの中に行って気持ちがずたずたになるよりこっちの方がいいよ!」と自分に声をかけたりしている。不気味でしょう。

何日前かにスーパーに行ったときも、とても嫌な気持ちになった。悲しいとも辛いとも違うから、嫌な気持ちという表現が適している。このGWに暇そうにスーパーを徘徊する人は、同じ独り身の人が多いよなと思い込んでいるのだけど、年齢がバラバラだと気にならないものの、同年代で一人の人がスーパーにいると、逆に居心地が悪くなってしまう。みんな似たようなあの足取り。用事もなく、あてもなく、遠くに視点をあわせてふらふらと陳列棚の間を歩く。相手の寂しさを勝手に感じ取れた気になってしまい、また自分の寂しさも全部伝わってしまうと感じる。あの日も私は1軒目のスーパーを見終わって、「帰ってもまた籠るだけだしなあ」と思い、次のスーパーに梯子することにした。2軒目のスーパーで私が関心のある商品の裏パッケージをまじまじと読んでいたら、1軒目のスーパーでうろついていた男性と商品越しに目があった。「おお、、、お前も梯子したのか、、、」と恥ずかしい気持ちになった。

私は、この世も浮立つような五月晴れのGWに、たった一人でスーパーを梯子していたこととか、あまりに暇なものだから買いもしない商品の説明を熱心に読んでいたこととか、彼と目があった瞬間に急いで商品を棚に戻して足速に店を去ったことが、とんでもなく情けなく、嫌になった。現実的な解決方法は、金輪際スーパーを彷徨わないか、この過剰な自意識を捨てるかのどちらかなんだけど、今のところスーパーを彷徨わないようにしている。この私が唯一正当性を主張して行ける場所はスーパーなのに。

今日は連休7日目にして自分を奮い立たせて昼食から外に出た。実は昨年のGWの旅行以降、私は資格勉強をしていて、年明けに無事資格を取得した。今の会社に私の能力を捧げ続けるのは嫌なので、資格を生かして今後起業しようと思っている。それで、このGWの間に事業計画書を書いて、物事を進めるよう自分に使命を課していたのだ。だからこそ今年は旅行に行く気にならないというのもあった。ところが連日ジャンクフードと酒とスマホに溺れる日々を過ごして、一切手をつけられなかった。ようやく今日はその作業を2時間くらいしていたけど、途中でやり方がわからなくなって、ふと顔をあげて前を見た。

茶店のテーブル席。向いにはもちろん誰も座っていない。いつも夫は私をソファ席に座らせてくれた。だから通路側は彼の席だ。その席に彼がいる姿を想像してしまい、一瞬で涙が込み上げてぽろぽろ泣いた。大丈夫なわけないじゃないか。全然大丈夫じゃないよ。

起業の野望をここに書くことは1年くらい躊躇があった。そんなことを口走ると、本当に立派な「グリーフ・プロセス」を経ているようで、キラキラすらして聞こえるが、そんなことはない。起業したら自分の関係者が増えて死ねなくなるのではないかという考えも常にあって、死ぬことを諦めてからでないと起業できないかもと考えたりする。最近は、今の会社に社畜として使われたままでは死ねないという別のモチベーションもあったりする。

あまり脈絡のないことを書き連ねてしまったけど、一人で引きこもってる割には考えていることがうすっぺらく思い詰めてもいないんだなと客観視してしまった。昨日は結局飲みまくったことで気持ちがバーストして、力をこめて泣いたもんだから朝起きたら目の周りが腫れていた。もう泣くことさえ減ってしまって、本当に自分という存在がいらない。悲しみもしない自分はいらないよ。

 

長い長い地獄

数年前のホワイトデーは、0時過ぎというこの時間、彼が手作りしてくれたホワイトデーのデザートの余韻冷めやらず、それまで10年以上彼に抱いてきた愛おしい気持ちを改めて噛み締めながら、私は眠りについたのだろう。今私の目の前にあるのは、そんな彼を爆弾で吹き飛ばした後の焼け野原で、その野原に、私はもう2年もいる。

もう2年か、まだ2年か。私は平均寿命で言ったらまだ50年以上あるのだから、2年なんてその長い長い地獄のわずか4%に過ぎない。もう彼を失ったわけなので、彼が病院で横たわって死んだあの瞬間を境に私の苦しみは9割9分9厘まで上昇したのだけど、長さという意味では、あの瞬間から地獄の滞在時間を更新し続けて、残り1厘の苦しみも埋め立て続けている。あれからずっと私は摩耗している。頭なのか、心なのか、そのどちらもなのか、鈍い速度で回転する摩耗機にずっとかけられている心地。終わった人生の、その後の焼け野原。そこに居続けるという地味で目立たない苦しみ。

彼の死という事象発生から年月が経つことは、もう一つの弊害がある。思い出や記憶からもどんどん引き離されることだ。今はまだ写真の中の彼と、今を生きる自分が同年代と感じられる。でも、40代、50代、60代と年齢があがるにつれて、きっとそういうもの一つ一つを失っていく。気づけないほど緩やかに、でも確実に失い続けてしまう。この日記だってそれを証明していて、2年前には「2年前は〇〇だった」と書いていたことが、今となっては4年前になっていて、鮮明な記憶は失っていたりする。あの時、どうしたんだっけ、どんな順番で、何をしたんだっけ、と今はわからないことが、過去の日記では当然のように確信を持って書かれていて、自分の単細胞具合に呆れる。こんな短い間に、こんなに忘れてしまったのかと。時間が経つに連れ、自分の中の一次ソースとしての記憶がなくなり、彼との思い出の多くは二次ソースに格下げとなる。次第に一次ソースなんて一つもなくなるのではないだろうか。

生きていく意味もメリットも何もないのに、ただ生きているから生きている。それでしょうがないと思う日もあるけど、今日は今年中に消えてしまいたいと思うような日だ。

今日見た写真の中の彼は、私の前を私の祖母と一緒に、駅の階段を降りていた。これまで意識してみたことのなかった写真。彼の表情も、祖母の表情も後ろ姿で見えない。でもはりきって階段を降りていく90代の祖母の背中に、彼は高い背を丸めながら優しく腕を回していた。誰に媚びるでもなく、誰に見せるでもなく。彼の優しさは、本当に美しいんだ。また彼のことが大好きな気持ちがぎゅっと湧いて、ただ虚しいほどに恋しくて泣いた。こんな地獄体験を、一体いつまですればよいのでしょうね。

 

いじわる

また生きたまま年を越してしまった。

新年は恒例のおめでとう挨拶を会社の多方面からもらったけど、今年も一度も口にしないまま乗り切ることができた。これっぽっちもおめでたくないので、心にもないことは言いたくないと頑固な私は誓っている。ただ、初出社の日に上司が清々しい顔で言ってきたときには、自然と「ああ、おめで・・・」まで口を滑らしてしまい、その後わちゃわちゃと相手の発言と被せてお辞儀したりして誤魔化した。

メールの挨拶も我ながらなかなか上手にかわせている。私の決まり文句は「旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いします」だ。これで新年感と相手への御礼は言いつつ、おめでたいとは一言も言わずに済んでいる。もう一生おめでたいなんて言葉は絶対口にしないんだぞ私は。

年末年始の過ごし方も、盛り上がるも盛り下がるもなく、連続7日に亘る閉じられた一人の時間だった。特段美味しいものを買い込むでもなく、ただ一歩も家から出ずに過ごした。来る日も来る日も、何もすることはない。正直毎日をどう過ごしているのか自分でもわからない。自分でわからないなあと思いながら過去2年以上、毎週末を虚無で過ごし、夏休みも虚無で過ごし、年末年始も虚無で過ごした。唯一の日々のミッションは食料品を買うことなんだけど、買い込んでも消費できずに腐らせてしまうことが出てきたので、最近は冷蔵庫がすっからかんになるまで待つようにしている。今週末も食料品は買わないつもりだったんだけど、あると思っていた塩が切れてしまい、しょうがない、今日は塩を買うという正当なミッションを携えて外出した。

塩は結局買ったことのなかった沖縄のシママースというものにしてみた。色々吟味したけど、日常使いだとやっぱりこれくらいがいい。そう、最近はこうやってよくわからないお金の使い方をしている。去年はフルーツを片っ端から食べた。一人でスーパーを物色しては、これまで節約生活で買ってこなかったフルーツをどかどかと買い込んだ。生まれてはじめてシャインマスカットを食べたときは、ほっぺたが落ちるかと思うほど美味しかった。死別して初めて、「夫くんこれ食べずに死んだなんて間違ってるよ!!」と思わず天を仰いでしまった。夫くんは皮付きマスカットが大好きだったから、きっとシャインマスカットもとても気に入るだろう。一緒に宝石のように愛でながら食べてくれたと思う。

最近の私のお気に入りはりんごだ。振り返れば実家で出されるりんごをおいしいと思ったことはなかった。一番の理由はわかっていて、母親が塩水につけるからだ。もうあれだけで私はアウト!そして、少ししなびているのかモソモソした印象があった。そんな私の中で微妙な位置付けのりんごだったけど、この冬は無性にりんごが食べたくなって、自分でスーパーで買ってみた。手に取ったものは大きなりんごが2個も入っていたので、美味しくなかったらどうしようと思ったけど、いざむいて食べてみたら、もんのすごく美味しかった。私が一番好きなフルーツってりんごかも、と思うくらい美味しかった。私は酸味が好きなので、酸味と甘味のバランスが取れた品種は好みにピッタリだった。確か、シナノゴールドというきみどり色の品種だった。かじるととてもみずみずしくて、果汁がほとばしる感じ。シャキシャキの食感。「うわあ、これは美味しいなあ・・・」と感動した。もちろん、一人で。一人で週末の昼過ぎに起きて、パジャマのまま一人で「うわあ・・」と言っている。その後に続く会話とか共感とかがない。なんならカラスがかあ、かあ、と飛んでいるような気分である。

今年は一人暮らしを始めて迎える2回目の春だからか、今日店頭でいちごを見かけた時は気持ちがギュッとなった。いちごも元来高価なフルーツで、夫くんとは滅多に食べなかったけど、昨年は一人で常備するほど頻繁に食べた。4つ切りにして、ヨーグルトに入れて、上からメープルシロップをかけるのがお気に入りだ。でも、今日いちごを見た時は、また食べられる季節がきた喜びよりも、ネガティブな気持ちの方がまさった。夫くんとまた暮らすという夢がまったく前進しないまま、また丸1年が過ぎた自分を感じた。この夢は何にも譲れない夢なのだけど、絶対に叶わない夢でもある。私がどんなに品行方正に生きようと、勤労奉仕の精神を磨こうと、どこかの神に仕えて祈りを捧げまくろうと、死別した人が目の前にぽわっと再び現れてくれるなんて話はない。この悪夢から目を覚ましたら彼が隣にいて、「みんみん大丈夫?うなされてたよ」なんて言ってくれる世界線はない。だからいつまでもこの夢は前進できない。永遠に成就しない夢。

去年は目新しさに癒されたフルーツも、今年は癒してくれるとは限らない。このどうにも進まない八方塞がりの世界で、昨年の私をひとときの逃避行に誘ってくれたものたち。今年はスーパーに並ぶいちごも、意地悪な顔をしてこっちを見ている気分だ。相変わらず、君の世界はなんにも変わらないね、と。